2013年3月30日土曜日

春日温泉、神通峡

大学時代の友人と久しぶりに会い、温泉でゆっくりしてきた。
友人は富山県の砺波市に住んでいるので、そこから車で約50分くらいの神通川の
ほとりの春日温泉に1泊した。
春日温泉のホテルのチェックインまで時間があったので猪谷関所と神通峡へ寄った。




















猪谷関所は、越中国(富山県)と飛騨国(岐阜県)を結ぶ飛騨街道が
古くから人や荷物の行き交う重要通路で江戸時代に富山藩が神通川の
ほとりに関所を置いたものである。




















通行人の監視や出入りする米、塩、魚や木材などに口役銭(税金)をとって
藩の財政に貢献したという。




















神通峡の付近は険しいので、道が通じている関所を通らざるをえなかった
という。




















国境警備のため橋を掛けることが許されず、渓谷や急流を挟んだ
断崖を渡る手段として「かご渡し」が使われたということで、当時のかごに
乗る体験コーナがあった。




















明治に入って関所が廃止され、神岡鉱山の繁栄に伴い、人や荷物の
輸送は荷馬車から鉄道に変わり、これが現在の高山本線である。

神通川の橋の上から峡谷を見たが、険しいがけの下に深緑色の川が
流れていて足のすくむ思いであった。

この付近は、紅葉、新緑の季節にはさぞ美しい景色であろう。








































次の日、春日温泉から「おわら風の盆」で有名な八尾を巡る予定していたが、
体調が悪かったのと、天候がよくなかったので中止したのは残念であった。

より大きな地図で 春日温泉、神通峡 を表示

2013年3月25日月曜日

尾張町界隈(3)

前回の続きで「森八商店」の跡地の向かい側へ行くと、道幅よりも
短い「枯木橋」という橋がある。
この橋の下は江戸時代からの東内総構堀の水が流れている。
この名前は、信長の一向一揆討伐で、久保市宮の境内の森林は
ことごとく焼き払われてしまい枯れ木の林になったいうことから
この名が付いたとか。




















その横には「石川県里程元標 金沢市尾張町 野々市へ1里31町24間」
と書いた標柱があった。
ここは東海道の起点が江戸の日本橋にあったように、藩政時代の北陸路
の起点は南北とも尾張町の元標のところからだったということである
またこの元標の横には明治、大正のころに使われていたガス灯があった。




















今度は橋場町から武蔵方向に左側を歩いた。
昭和5年に建てられたというモダンな建物の「三田商店」がある。玄関欄間
のステンドグラスも洒落ていて、中はギャラリーになっていた。
面白そうなものがありそうだったが、鍵がかかっていては入れなかった。




















「三田商店」の裏にあったカフェ「フルーレ」でコーヒを飲み一服した。
ここでは、マスターと40歳くらいの二人のやり手の女性が、この近くに
アパートを借りて、町屋をリフォームして何か店を作る話で盛り上がっていた。
金沢城と東山の中間のこの近くで店を持つことにほれ込んでいるようであった。
「音楽カフェなどいいんじゃない」というので、私は「それはいいアイデアだ」と
賛同して仲間に入った。
そういえば金沢には美術工芸のギャラリーはたくさんあるが、町の中に演奏
などできる場所が少ない。




















また少し歩くと「松田文華堂」といって江戸時代から墨、筆や硯などを売って
いた店があるが、今はもう店はやっていない。




















それでも店の中に入ると、一人の男性が小さなライトを付け一生懸命作業を
していた。
この人は、昔の町屋の建物や浅野川大橋付近に戦前あった火の見櫓などの
ミニチュア版を写真を参考にしながら作っているという。
ここの場所をアトリエとして使っているという。
作ったものを見せてもらったが、非常に精巧に作られ、すばらしいものであった。




















店の中にあるものは、江戸時代から店で使っていたものがそのまま
残っていて、小物を入れる引き出しなど、なんともレトロな雰囲気である。




















1800年代の初めのころ、産物交易による富国増殖を説いた有名な江戸の
経世家の海保青陵という人が、金沢に来た時に、ここの人と交流があったので、
青陵が書いたという松田文華堂の看板が掲げられていた。




















また少し歩くとレトロな建物の薬屋の「石黒傳六商店」がある。
この店の建物は嘉永5(1852)年だが、最初に店を構えたのは寛永年間
(1661~1673)と伝えられていて、現在は20代目傳六というから相当
古い。今は薬の卸業をやっている。








































隣のビルは昭和2年に建てられた「石黒ファーマシー」というビルで、
当時としては珍しい地上4階、地下1階ビルでモダンな建物であった。
今は1階がコンビニになっていた。

次に尾張町町民文化館がある。
平日で中には入れなかったが、尾張町の老舗に伝わる受蔵品の
展示をやっている。
明治後期に銀行として立てられたが、外観としては銀行として似ても
似つかわしくない黒漆喰の土蔵造りである。
昔に入ったので覚えているが、内部の銀行時代の窓口には頑丈な金網があり、
面白い。柱もあめ色のギリシャ風のものであった。




















この町は、金沢城の大手門に近く、藩政時代は城と、また、戦前までは
陸軍7連隊、第9師団本部とのかかわりを持ちつつ発展した。
いつまでも老舗の名前を残していってもらいたいものである。
尾張町(1)、(2)、(3)の散歩時間は3時間30分、7200歩でした。

より大きな地図で 尾張町3 を表示

2013年3月19日火曜日

尾張町界隈(2)

前回の続きで、少し歩くと尾張町の老舗の中の老舗である「細字判店」
に入った。店に出てきた奥さんらしい人にいろいろと聞いた。




















ここは前田利家が金沢に入城して5年後の天正6(1588)年の創業と
伝えられているから、もう420年以上経っているからすごい。
織田信長が全国各地から100人の印判師を京都に集め、講師の
ポルトガル人から講習を受け、その結果が優秀であった3人に「細字」の
姓が与えられたが、そのうちの一人がこの店の初代佐平であったという。
初代は尾張荒子生まれで利家と同郷であったので御用印判師として
召抱えられたという。
また、14代前田よしやすの時代に発行された藩札の印もここで作った
ということで陳列されていた。




















店内にある印章は非常に細かい模様を施されたものが多く、よく手作業で
このようなものができるのか驚きであった。
「時世や時流にあまり影響されない地味な商売だから生き残ったのだ」と
ここの先代のおじいさんが言っていたという。




















また、少し歩くときれいな立派な店があったが、これは「山田時計店」である。




















ここの80歳になる会長と話をした。
私が「高校の入学のときに、親に腕時計をここで買ってもらった」と言ったら
「今でも動いていますか」と言われた。
その頃は時計とレコードなどを売っていたが、レコードは今は売っていない。
それに変わって、婚約、結婚指輪や真珠のネックレスなど宝石を売っていた。
老舗の尾張町の中では、近代的に改装された店だ。




















また少し歩いていくと、これも老舗の「森忠商店」があった。
ここも古く、天保14年からやっていて、油脂、塗料を扱っている。
現在は昔ながらの漆や柿渋などの自然塗料や接着剤、化学製品も
扱っているという。




















この店ができる以前は、このブログに載せた十間町の「住吉旅館」がこの地に
建っていた。この旅館に地図作成で有名な伊能忠敬が泊まって、この付近の
測量をした。
それで、この店に測量器具や作成した地図のコピーが展示されていた。




















和菓子の「森八商店」が橋場町交差点近くにあったが、大手町に移転した。

そこでこの跡地をどのように活用するに^するのか、この近くの人のみならず
我々も興味がある。是非、尾張町を活性化させるものを作ってもらいたいものである。

より大きな地図で 尾張町2 を表示

2013年3月14日木曜日

尾張町界隈(1)

今回は尾張町を散歩した。
ここは昭和の初め頃までは、金沢の中でも一番賑わっていた
商店街である。
尾張町の名前の由来は、前田利家が金沢に入城したときに
尾張の商人たちを連れてきてこの辺に住まわせて商人の町にした
からという。従って、江戸、明治時代からの老舗が多い。
武蔵から橋場町に向かって通りの左側を歩いた。

まず「中六商店」に入った。ここは文化10(1813)年創業で
200年経っている。




















味噌、醤油などをずっと売り続けている。今は、リフォームして店は
改装されたが、店内に昔の店構えの写真や絵が並べてあったが、
なんともレトロな建物であった。




















醤油は大野から仕入れているし、味噌は手作りで作っているとか。
スケール、錘などが付いたレトロな天秤はかりが置いてあった。




















その隣の市姫神社に寄った。
ここは金沢の台所の近江町市場で働く人の守り神として崇められている。




















私が小学生の頃、よく遊んだところなのでよく知っているが、大きな石が
移っていたり、手水鉢ができたりしていた。
背の高い石碑はなにが書いてあるのかよく分からなかったが。宮司の
話によると、神社創建の協力者たちが、なぜここに建てたかなどが書いて
あるという。




















市姫神社の隣には「中島めんや」がある。
ここも明治の初めのころからやっているというから古い。
店内には年賀切手の題材にもなった「八万起き上がり」、「米食いねずみ」
「張子の虎」や「加賀人形」など多くのおもちゃが並んでいた。








































また店内に「八万起き上がり」のだるまに自分で目を書いたり、模様を
描いたりする体験コーナもあった。




















ここの主人は武蔵・香林坊商店街振興会の理事長であるが、その母親と
思われる人とこの付近のことをいろいろ話を聞いたり。昔話に花を咲かせた。
以前はもっと橋場よりに店を構えていたという。
郷土玩具を売っている店は、金沢には唯一という。

小路をはさんで、その隣には「麩」の「不室屋」がある。
ここも慶応2年創業というから150年くらいになる。




















店内はカメラ禁止だったが、お湯を注ぐだけでおいしい澄まし汁ができる
最中の中にいろいろ具材が入っているものや、加賀特有のすだれ麩など
も置いてあった。
若い女性の店員にメープルシロップの入った麩の試食を勧められ、
おいしかったので、買ってしまった。
不室屋の裏には、なんともレトロな異様な建物がある。
ここは昭和20年代頃まで「小児科」やっていた病院だったらしい。




















「中島めんや」のおばさんによると、ここのおばあちゃんが亡くなってから
ずっと空き家になっているが、そのおばあちゃんの家族がたまに東京から
やってきて住んでいるという。
長い間そのままになっているが、将来はどうしようと思っているのか聞きたい
ものである。


より大きな地図で 尾張町2丁目1 を表示

2013年3月8日金曜日

高岡町界隈(2)

前回の続きで、私が卒業した松ヶ枝小学校跡地に行った。
私が通っていたころには、校舎があったところは松ヶ枝緑地に、
グランドは松ヶ枝福祉館になっていた。




















松ヶ枝緑地の片隅に、小学校の校歌が彫ってある石碑があった。
よく見るとこの歌の作詞は、前々回紹介したA級戦犯の教戒師として
活動した花山勝信さんということが分かった。
この校歌は今でも口ずさむことができる。




















松ヶ枝福祉館はボランティア活動、高齢者や介護者などの福祉活動を
行っていて、いろいろな催しや教室などをやっている。




















小学校があったすぐ近くに、昔、細野文房具屋があり、学校の帰りに
よく寄ったが、文房具や子供の好きなものを売っていた。
紙飛行機をここで買い、自分で作って飛ばしていたのを思い出した。
今は店はやっていなく、ひっそりしていた。
当時の店の主人の息子さんは、現在、金沢にある全国的にも有名なコンピューターの
周辺機器を作っている会社の社長さんだと聞いたことがある。




















新しくできた通りの角には「つる幸」という高級料亭がある。
金沢のおもてなしということで、加賀料理を主にやっているが、私はまだ
入ったことがない。




















堤町にある北國銀行本店の建物は、私が小学校に通っていた時にできた
建物であるが、当時すごい建物だなあと思った。
しかしここ2年後に駅西のほうに移転することが決まっている。
その向かいにある、資格、就職の大原専門学校も駅西に移るとか。
だんだんさびしくなる。




















近くのカフェ「キャッスル」に入ってコーヒーを飲み一服した。
カフェのママさんは以前からここにいたので、私より30歳くらい若いが
やはり松ヶ枝小学校に3年生まで通っていて、その後、4校統合された
中央小学校を卒業したという。
私がいたころの小学生の1学年は200人以上いたが、閉校になったときは
29人になっていたという.

金沢市も中心街の活性化に思い切った対策を打ってもらいたいものである。

本日の散歩時間は1時間40分、4200歩でした。(高岡町(1)、(2))

より大きな地図で 高岡町3 を表示

2013年3月3日日曜日

高岡町界隈(1)

今回は、前回の武蔵町のお隣の高岡町界隈を歩いた。
高岡町の由来は、2代藩主の前田利長が越中高岡に隠居していたが
亡くなり、その家臣たちを金沢に帰し、この地に住まわせたことから
この名が付いたという。




















明治時代に殖産政策のひとつとして、果樹園が奨励され、高岡町、長町
彦三などの武家屋敷にリンゴ園が経営されたが、その名残をとどめる木が
残っていた。




















鞍月用水沿いに、お香、線香やろうそくなどを売っている「伽羅」という
店に入った。




















インドネシアなど東南アジアの木を原料として、粉末にして成形した線香があった。




















また、七尾市の有名な店で作っているというろうそくはきれいな花が描かれていた。
これは、転写のものもあるが、手書きのものは繊細に描かれ、華やかな感じがする。




















お香がきれいな袋に入っており、車や小部屋などにぶら下げておくと
アクセサリーにもなり、いい香りが味わうこともできるという。




















前を流れる鞍月用水の開削は古く、中世までさかのぼるといわれるが、
定かではない。取水口は犀川上流の上菊橋上流右岸にある。
明治から大正末期には金沢製糸場の機械を動かすなど機械の動力
として利用された。




















少しわき道の目立たないところにある「松声庵」という茶室がある屋敷に入った。
ここは、幕末から明治にかけて旧新町に住み、数奇者として知られた金谷三次郎
の邸宅にあったが、大正時代に常磐町の油谷氏邸に移築したが、平成になって
金沢市に寄贈され、この地に移築されたという。




























































茶室にふさわしい落ち着いた和室と庭があり、ゆったりとした気分が味わえる。
ここの管理人によると月に1回茶会が開かれ、その他、生け花、句会や歌会
などをやっているという。
金沢は昔から茶の湯が盛んで、このような茶室は何箇所かあるので、そのうち
訪れて紹介していきたいと思う。

より大きな地図で 高岡町2 を表示