2020年8月31日月曜日

高岡市巡り(3)伏木北前船資料館

 高岡市巡り(2)勝興寺②の続きで、その後にすぐ近くの「伏木北前船資料館」に行った。ここは、高岡市指定文化財で旧秋元家住宅で、文化年間(1804~1818)以前より現在地で海運を家業とした旧家である。屋号は本江屋で、当初は船頭や水主(かこ)などの宿泊施設(小宿)だったが、時代が下るにつれて長生丸や幸徳丸といった船を持つ廻船問屋として繁栄したという。

主屋は、1887(明治20)年の大火で焼失し、その後、元通りに建て直されたといわれている。建物は、切り妻造り、一部2階建て、梁や束、黒壁の構成が美しいアズマダチとなっている。




















内部の展示品には、伏木の廻船問屋と交易、伏木港の変遷など北前船の通商で栄えた伏木周辺の歴史を紹介している。また、北前船の航海用具や船主の生活用具、全国各地の引き札などを展示している。



















内部は、オモテザシキやオクザシキ、チャシツなど数寄屋風の繊細なつくりとなっている。





























船箪笥は、船中で船頭や知工(ちく 事務局)が大切な書類やお金、衣類を入れたもので、懸硯と帳箱は金庫として、下の写真も半櫃(はんがい)は衣装櫃として使っていた。
小説家「堀田善衛」の記した文の額が飾られていたが、「堀田善衛」はこの伏木の廻船問屋で育った人で、金沢2中、慶応大学で学んだ国際派の小説家である。芥川賞をとり、文明や国家について鋭く論じた有名な小説家・評論家である。金沢の2中時代に香林坊のスポーツ店で働きながら英語の勉強をしていたという。
























結婚などに使う熨斗紙に北海道で採れたコンブで包まれている。



















土蔵は2階建てで、調度蔵と衣装蔵の屋根の上には、港の出入りを見張るための望楼が設けられていた。
秋元家に伝わる古文書には、1857(安政4)年に加賀藩の重臣一行が海岸視察に訪れに、ここで休息をとり、蔵前の2階に上がり、望遠鏡で港を眺めたということが記されているという。現在市内に望楼が残っているのはここだけだという。



















望楼に上がるための階段は、非常に急でしかも狭く手すりに摑まりながら、やっとの思いで上がった。
























上に上がると2畳くらいの狭いところだったが、眺望が開け、海が近くに見え藩政時代の雰囲気を味わった。













土蔵の下には、北前船時代に使った高岡鉄製の大きな鍋が置かれていた。この鍋を北海道にもっていき、北海道の人たちは、これでニシンを煮て肥料にした。この肥料を北陸や山陰、山陽、関西へ北前船で運び、この肥料で米や野菜を作ったという。




















中央の庭から見た主屋。


2020年8月26日水曜日

高岡市巡り(2)勝興寺②

 高岡市巡り(1)勝興寺①の続きで、その後、本堂の中に入った。ここの内陣廻りの欄間は金箔を施されたきらびやかなものである。

欄間上の極彩色の蟇股の 鞨鼓(かっこ 雅楽の唐楽に用いる両面太鼓)を打つ天女












受付で探してくれと言われた本堂の四隅を支える「天の邪鬼」が彫刻されているが、実際は見つからなかった。下の写真は書籍からのもの(勝興寺の七不思議のひとつ)












外陣に置かれていた駕籠は、1761(宝暦11)年に6代前田吉徳の十男時次郎(治脩)が、勝興寺に住職として入寺の際に使用したという大名駕籠(女乗り物)と伝えられている。同種のものが石川県立美術館に所蔵されいるが、加賀藩御細工所で造られたものといわれている。駕籠の本体、屋根などの外側には、黒漆地に蒔絵の梅鉢紋や唐草模様で飾られている。天井の格子にも宝珠や珊瑚などが描かれている。



















また、反対側には重要文化財の「紙本金地着色洛中洛外図」屏風が置かれていた。さまざまな洛中洛外図のなかでも、これは創建当初の二条城の姿や京都の神社仏閣や伏見城などが描かれ、時代が特定できるの貴重なものだという。





























地震に強いというお寺などの古建築に使われている屋根などを支える梁に肘木と斗と呼ばれる組物のサンプルが置かれ、それぞれの名称などが描かれていた。



















本堂から大広間・書院などへ行く渡り廊下




















畳がぎっしりひかれた大広間の襖の文様、引手、釘隠しがすばらしい。



















本坊(寺の居住部分の総称)の各部屋では工夫が凝らされた意匠が見られ特に住職の居間であった「奥書院」は非公開で見れなかったが、壁と襖全面が金箔貼りだという。




















多くの僧侶たちの料理を作る「台所」には釜などが置かれている。



















四角い木枠に囲まれた井戸



















台所に入る式台
























受付の人に聞いた「龍に見える柱」だが、よく見るとそのようにも見える。












2020年8月22日土曜日

高岡市巡り(1)勝興寺①

 今回は、金沢市と縁が深い富山県の高岡市へ。ここは何度か来ているが、一緒に行った仲間と話し、前田家11代藩主が幼少の頃にいた「勝興寺」と高峰譲吉が米国で交流の場として使用した「松楓殿」の再現を中心に見ることにした。

まず「勝興寺」に行った。ここは、1998(平成10)年から続く平成の大修理を経て、今年修理完了だという。

「勝興寺」前に着くと、正面に「総門」が見えた。ここの建設は1840(天保11)年といわれていたが、1864(文久2)年と判明したという。高さは8.7mで、本柱と控え柱を結ぶ小さい屋根がある「高麗門」になっており、屋根は瓦葺きで、先端に「梅鉢紋」が付いている。また両側にめずらしく鯱が付いているという城郭のような門である。

「総門」をくぐるり、立派な欄干のついた石橋を渡ると、きらびやかな「唐門」(重要文化財)がある。この建物は、元は京都の興正寺で1769(明和6)年に造られたもので、1893(明治26)年に敷石ごと移されたという。当時の交通事情から鑑みて、何隻かに分けて北前船で運ばれたといわれている。

「雲竜山」勝興寺の扁額

「唐門」の隣に城郭を思わせる望楼形の「鼓堂」が見える。昔は中に太鼓があり、僧侶に時を知らせるために使われていたという。

「唐門」をくぐると正面に「本殿」の建物がある。ここで、「勝興寺」の歴史について紹介する。本願寺8世蓮如上人が、1471(文明3)年に越中の布教の拠点として、加賀との国境近くの土山坊に開いたのが起源である。戦国期には同宗派の僧侶・門徒に大きな影響力をもちながら、越中一向一揆の拠点として戦国武将と関わってきた。古国府城のあった現在の地に1584(天正12)年に移転後、越中に進出してきた豊臣秀吉から寺内の安全と保護を約束され、その後越中国の支配者となった前田家とも密接な関わりを持ちながら、広大な伽藍と寺内町を形成した。越中における浄土真宗の触頭として、近代に至るまで繁栄している。現在、約30,000平方メートルの広大な境内には、本堂をはじめとして12棟の建造物が重要文化財に指定されている。

本堂は勝興寺住職より還俗して、加賀藩主11代を継いだ前田治脩の支援を受け、西本願寺の阿弥陀堂を模して1795(寛政7)年に建立された。


境内に「天から降ってきた石」が置かれていたが、「隕石」だろうか?先日、千葉県習志野市のマンションに落ちたのは小さなかけらだったが、あちこちで空の閃光を見たという人がいた。この大きさの隕石が落ちたのであれば、相当大きな衝撃があったのではと思う。門信徒が言い伝えきたという七不思議のひとつ

実のならない銀杏の木(七不思議のひとつ)
「経蔵」は、多くの経典が中に入っている所である。

勝興寺の「七不思議」のひとつの「水の枯れない池」

2020年8月18日火曜日

山中温泉 鶴仙渓

山中温泉街に沿って流れる美しい渓谷「鶴仙渓」は、約1.3kmにわたる遊歩道もあり、美しい景観を眺めながら歩くことができる。ちょうど新緑の光景が素晴らしく見ごたえがある。




























「こおろぎ橋」は昨年に建て架けられ、総ヒノキ造りの木造橋で「鶴仙渓」のシンボルともなっている橋である。昭和53年にはドラマ「こおろぎ橋」の舞台となったことで有名になった所である。




















橋の中央から上流側を見ると、昨日からの雨で大量の水がながれているので、流れが早い所は霧が上がって向こう側が見えなくなっていた。




















橋の真下は、川幅が非常に狭いが、川底はV字状でかなり深くなっているのだろう。




















橋の袂に俳句などが刻まれた石碑が立っている。



















遊歩道はきれいに整備されていて、片側は川で、反対側は土や岩の崖になっている。杉の木立の間の風光明媚な景色を見ながらゆっくり歩くと気分がよぅなるところだ。



















この季節は雨が多いので、特に苔が両側に生えきれいな緑色をしていた。岩肌や並べられた石にも苔が生えていた。
























途中には橋もかかっており、橋の手摺にも苔が生え、これもまた見ごたえがある。
























また、東屋もあるので疲れたら一服できる。




















遊歩道を歩きながら、所々で川を見ると流れが早い。

この石かどうかわからないが「石采巌」と呼ばれる石は、中国金陵の辺りに泊舟の小馬頭にして付近の景色采石江辺りに似ていることによって名付けられたものと案内板に描かれていた。

この日にはなかったが、後日この辺りに川床で一服する場所が作られ、観光客が素晴らしい景色のせせらぎを眺めている様子が新聞に掲載されていた。




















さらに遊歩道を歩いていくと川の両側の新緑の中に「あやとり橋」が見えた。
























「あやとり橋」は紫っぽい鉄製の奇妙な形(昔遊んだあやとりのような形)をした橋である。



















大きくひねられている橋



















「あやとり橋」の上から見た川の様子