2019年10月30日水曜日

北国下街道下口(6)鹿島神社

北国下街道下口(1)のブログの所で紹介した「北国街道」沿いに「石川縣十名所義経旧蹟鳴和瀧」の標柱にある小路を曲がり、坂を上っていくと数分で「鹿島神社」に出る。
























この階段の横に、「源義経と鳴和瀧」の説明書きの石碑がある。謡曲の「安宅」は、安宅関に義経一行が来て、変装して通り抜けようとした。しかし関守の富樫泰家に疑われたが、弁慶が機転をきかしうそを読んだ。しかし家来が義経に似ていると疑われると弁慶が義経を杖で殴りつけて難を逃れた。
しかし、泰家が一行を追いかけてきて、「長旅の疲れをお祓いか出され」と馳走を進めた。弁慶はうれしさのあまり「鳴和瀧の水・・・」と舞い、義経は久しぶりに憩いの時を過ごしたという。その場所が、ここ「鹿島神社」といわれる。



















ここに「鳴和の滝」という小さな滝が2本ある。また、弁慶の足跡と言われる大きな穴も残っている。滝下には石組がきれいにされて神聖な感じがする。





























鳥居の横には、この滝の水神が祀られているのか小さな祠もあった。
























さらに小さな灯篭や何やら書かれた石碑もあった。



















階段を上がると、拝殿とその前の両側に子連れの狛犬と逆さ狛犬がある。
この神社は、古来より談議所村(現在の鳴和町)の産土神として厚く尊崇せられたという。寿永元年の木曽義仲の乱及び文明年間の宗教一揆の際に兵火にあったが、寛永13年に氏子一同によって現在のように再興したという。ご祭神は武甕槌神で、さらに配祀として天照大神・稲荷大神・大国主神・菅原大神を祀っているという。     


































拝殿・幣殿・本殿の建物が見える。



















拝殿の横の手水鉢



















「紀元二千六百年記念樹」の石碑が立っていた。昭和15年ということになるが、どの木かわからなかった。横のがけ地には、木が生い茂っていた。
























「鹿島神社」の帰り際に、きれいに咲いているコスモスを見つけた。


2019年10月26日土曜日

北国下街道下口(5)児安神社

桜丘高校の下に「泰産社」(たいさんしゃ)ともいわれる、子宝と安産の神様の「児安神社」がある。



















鳥居の前にこの神社の「御縁起」が書かれた案内板が立てられていた。創建は奈良時代の723(養老7)年と伝えられている。元正天皇の時代に全国に農地改革の詔が発せられ、越前の国加賀郡にも田畑の開墾を進め灌漑の便をよくするために大堰堤を造り、水と農業の守り神として「大堰宮」を造った。そしてこの社地を「大堰」(おおひ)と言い、現在の「大樋」という地名の語源と言われている。戦国時代に荒廃した社殿の相殿に安産・子育て・結びの神として(いざなみのみこと)・伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)を祀ったが、そのうち衆人より児安大明神と呼ばれて親しまれるようになったという。江戸時代には宮守として真言宗の僧侶が住んでおり、その僧侶の内儀が毎日境内にある「子授け石」を撫でたことで子宝に恵まれたともいわれ、子宝を望む人々や産婦の安産、我が子の無事な成長を願う親たちから崇敬された。このことを聞き及んだ加賀藩三代藩主の前田利常公からも篤く信仰され、前田家に伝わる安産神符秘法を伝授奉納された。これより、広く世の産婦や安産神符を望む人々に頒布するにつれ、社号は児安大明神・児安観音から泰産社と称されるようになったという。



















鳥居の横には、ここの土地が大樋町民の所有になった時の記念碑があった。明治5年の地租改正を機に、相対請地制度による農民からの借地であったが、土地を取得するため町の有志が長い年月をかけて努力し、明治初期に金沢市に編入することになったこと記念する石碑であることが案内板に書かれていた。
























境内には大きな木が生い茂っていた。スギ、エノキ、タブノキなどの高木35本、ツバキ、ヒサカキなどの低木450本あるという。金沢市指定の保存樹となっている。



















参道左の杉は樹齢300年、標高22m、幹周り3.4mの巨木でご神木として語り継がれている。
























参道の階段を上り、朱色の柵の中に入ると鳥居があり、その奥に社殿がある。



















この階段の途中を左に入ると「子授石」がある。この「子授石」は、ここの創建以来の霊石である。妻女がこの石を撫で自分の腹をなでることによって玉の如き子を授かり、しかも豊富な母乳が得られるものと言われている。

軍人の「御成婚記念」(?)碑の上に大砲の玉かと思われるものがのっていた。
























拝殿は古風で簡素な感じである。ご祭神は伊邪奈美命(いざなみのみこと)・伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)、相殿神として畔分堰神(あぜわけせきのかみ)と児安大明神をお祀りしている。



































拝殿の前にあたらしく「子授守」ができ「安産神符」と同様に、「児安神社」の前の大通り向かいの「清水商店」にあるので気い求めてほしいことが書かれた紙が貼ってあった。
























「清水商店」には、「安産祈願」や「子授守」のほかに小さな動物などかわいいのお守りが販売されていた。

2019年10月21日月曜日

北国下街道下口(4)

北国下街道下口(3)の続きで、「やちや酒造」の店の向かいの小路に入ると、民家の玄関の両側に、内部が土で板で覆われ、瓦屋根のついた塀があったが、かなり古いものであろう。ちょうどこの家の人が出てきたので聞いたら、「やちや酒造」に能登の杜氏の人達が来た時の宿泊場であったと言っていた。




















「やちや酒造」からさらに北国街道を進むと、大通りに出るが、ここに「大樋町」の標柱があった。「昔大きな樋(とい)で水を引いていたことから大樋の名がついたという。この地はもと大樋村の村地であったが、藩政後期に町奉行支配地となり町地となった。明治の初め、この名が町名になった。」とあった。
























大通りの向かい側の角には、以前は店をやっていたと思われる町屋だが、きれいに改修されていた。




















珍しく3階建ての古そうな建物とその隣の家も以前は店をやったいた町屋と思われる。旧街道の商店街だったことが偲ばれる。
向かい側には現在もやっていて、白い暖簾がかかっている「森下米穀店」は、新しく建物は建て直しているが、旧街道時代からやっている店だと主人が言っていた。



















さらに進むと、現在も店をやっている古くて大きな店構えの「朝賀家具店」あった。広いショールームには家具がたくさん並べられているのだろう。今は郊外にある大きな店に集中していて、町中の小さな家具店は、殆どなくなったがここはまだ頑張っている。



















さらに歩いていくと大通りの「城北通り」に出る。この裏道となった細い「旧北国街道」はここで終わりで、その出口にも標柱が建てられていた。



















昭和40年頃までは、ここに「東金沢駅」まで市電が走っていた。「鳴和」から「東金沢駅」までの線路は「枕木」が露出していてた。廻りも町中と違って、かなり郊外の雰囲気があった。私が中学生時代に自転車でここまで来た時の印象が今でも鮮明に覚えている。



















「旧北国街道」の裏道には、さらに道が細いが両側には古い家が建ち並んでいる。旧街道は商店街で、そしてここ辺りは住居地であったのか?
























旧北国街道の山側の方の道を少し歩くと、石垣などの上の高台に屋根の下のしっくい壁に梁が張られた「アズマダチ」の立派な家があった。この辺は武士がいなかったから、昔は農業をやっていたのか?











2019年10月17日木曜日

北国下街道下口(3)やちや酒造

北国下街道下口(2)の続きで、さらに北国下街道を歩いていくと、右手に大きな町屋「やちや酒造」の店がある。間口が7間の2階建てで、屋根は切妻、桟瓦葺き、大戸の横に長い格子戸がある。玄関の上には「清酒 加賀鶴」の暖簾がかかり、酒屋のシンボルの「杉玉」がかかっている。



















 金沢でただ1軒残された土蔵造りの酒蔵で、前田利家公のお供をして尾張から移住してから、創業1628(寛永5)年で、前田家の藩御用達の酒造りを行っている。



















玄関の横には、「加賀鶴」の大吟醸や純米酒など多くのお酒が並んでいた。「加賀鶴」は藩主から送られたもので、百万石の銘酒と言われる所以である。店内に、ここの前会長が今の上皇が天皇時代の「園遊会」の参加や賞状を受けている写真なども飾ってあった。



















金沢の地酒として藩祖「前田利家」と所縁があるのでその名前の銘酒もあった。
























この店で有名なのは「前田家」所縁の「ひな飾り」があり、ひな祭りの季節になったらこの店内に飾られる。16代前田利為の菊子夫人が輿入れされた時に持ってこられ、その娘の酒井美意子さんに受け継がれ亡くなった後、ここの会長が譲り受けたという。その新聞記事が掲載されていた。



















店の奥には大きな古民家の「茶の間」が見え、板の間に囲炉裏、自在鉤、茶箪笥などレトロなものが置かれていた。
























囲炉裏の上は天井が高く、太い梁が張られていた。また中央に洒落た和紙(?)で作られらた灯りがぶら下がっていた。
























「加賀鶴」と書かれた額の下には、華やかな紋と花柄模様の「花嫁のれん」が飾られていた。



















青く染められた暖簾には梅鉢紋と加賀鶴の字が書かれていた。その上に「加賀鶴」と書かれた小さな酒桶(?)が掲げられていた。



















11月になったら能登杜氏四天王のひとりの山岸昭治杜氏が来られて仕込みが始まり、3月ごろまで行い、忙しい季節になるという。部屋にお酒ができるまでの工程が掲載されていたが、多くの工程があるので、さぞ大変な作業なのだろう。



















店の裏に酒蔵や酒造製造工場があるということで裏道を行ったが、工場の事務所の建物や塀で見ることはできなかった。


2019年10月13日日曜日

北国下街道下口(2)

北国下街道下口(1)の続きで、その先に藩政期の建物と思われる古い町屋の建物があった。この建物の前に案内板がかかっており「金沢市指定保存建築物」で、「坂戸米穀店」とあった。1811(文化8)年の「金沢町絵図」に載っているという。表には大戸、蔀戸、サガリなどの町家の古い意匠を残しているが二棟に分けられた珍しい建物である。「旧北国街道」の町家の雰囲気が分かる貴重な建物であるという。





























さらに進むと、1本の松と「下口の松門跡」の案内板が掲げられていた。藩政期にここに大きな松と門があったのであろう。城下の町地と郡地の境界を表し、参勤交代の時はここまでは行列が整列していたが、この門を出ると行列を緩める役割を果たしていたという。また旅人を送ったり、迎えたりするのもここの地点までだったという。



















案内板の下方には、このあたりの1811年の「金沢町絵図」が載っていたが、街道の両側には通りに面して細長い町屋がびっしりひしめいて並んでいた様だ。近郊の農村の人たちが町で用を足した後、ここで生活必需品を買い求めて帰ったという。
























その隣にある坂道を上がると「桜丘高校」がある。



















途中の急な坂道の両側には、春になると「桜丘」の名前通りソメイヨシノがいっぱい咲く坂道になるのだろう。この坂も私にとっては結構きつかったが、高校生は軽々上っていくのだろう。
























高台に上がると、前面のポールが印象的な立派な建物が見えた。4年前に新校舎ができたという「桜丘高校」に来たのは私は初めてである。「質実剛健」、「文武両道」をモットーとした金沢市の名門の高校である。校舎の周りを少し歩くと、今日は休日なのに窓越しのテーブルに向って勉強しているような生徒がかなりいたが、自習しているのであろうか。



















「桜丘高校」の前身が金澤第三中学校であるが、その建物の玄関棟が「三桜会館」となっている。旧制金澤第三中学校は1923年に開校した時にこの建物も竣工した。大正時代に建った学校建築で唯一現存している建物だという。



















玄関ポーチはモルタル塗りで仕上げられており、壁は下見板で、長い上げ下げ窓や上部の特徴のある形のでっぱりや黒い瓦屋根が面白い。



















私が学生時代から社会人なった昭和40年代には、桜丘高校は野球が強く、甲子園に行っていて、テレビでよく応援していた。東京から帰省していた時に、斜め向かいの子が出場していて「うちの子が1点入れた」などと大騒ぎしていたのを思い出す。