2024年3月27日水曜日

金沢大学中央図書館 資料室(1)


今回は、金沢大学中央図書館へ金沢城の中にあったころのことを調べようとして行った。



この建物の中に「資料室」があり、金沢大学の前身の学校の資料などが置かれていたので紹介する。

資料室に入るとまず目に入ったのが、「明倫堂」と「経武館」の扁額である。

加賀藩の藩校は、1792(寛政4)年に加賀藩11代藩主治脩によって創設された。朱子学を中心に、和学、漢学、漢医学、算術、歴史、天文学などを学ぶ文学校であった。この扁額は、初代学頭の「新井白蛾」の揮毫によるもので、額面は欅一枚板で造られ、文字の輪郭を片切彫にして文字面を浮き彫りにし、金箔を押した造りである。1871(明治4)年の廃藩置県により、藩校は廃止されたが、その後1936(昭和11)年石川県師範学校の講堂に掲げられ、金沢大学に引き継がれたものである。現存する全国の藩校の扁額としては最大級のものであり、金沢市有形文化財になっている。



















同じ11代の藩主治脩によって創設によって「経武館」は、馬術、槍術、剣術、柔術などを学ぶ武学校であった。この扁額は「前田土佐の守直方」の揮毫によるもので、「明倫堂」の扁額と同じ造りである。「経武館」は、1868(明治元)年に同じく藩校であった洋学校「壮猶館」に合併された。その後、扁額は1936(昭和11)年石川県師範学校の講堂に掲げられ、金沢大学に引き継がれたものである。


















「至誠」扁額の書は、1901(明治34)年に元帥小松宮彰仁親王が日本赤十字社総会に臨席するために来県した際に、時の第四高等学校校長北条時敬が講堂に掲げる扁額の染筆を願い出、下賜されたものである。小松宮は皇族軍人で、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争などのそれぞれ要職を担って出征している。
四高ではこれを額装して講堂の掲げ、以後その講堂を「至誠堂」と称した。至誠堂は1893(明治26)年に落成したが、現存せずこの扁額だけが歴史を語り継いでいる。


















当時の講堂「至誠堂」の写真



















下図は金沢大学の前身の学校の変遷を示したもので、医学部は江戸末期に「種痘所」、「養生所」から始まり、明治に「医学専門学校」となっている。また教育学部は明治前期に「石川県師範学校」から始まり、その後いくつかの名前を変えて、昭和期には「石川師範学校」と続いている。工学部は、大正期に「金沢工業学校」から「金沢工業専門学校」となっている。そして「法学部」、「文学部」、「理学部」、「教養部」などは、「金沢第四高等中学校」から「金沢第四高学校」が前身なのであろう。

















1874(明治7)年に石川県は小学校教員養成のために集成学校を開校した。これを石川県師範学校と改称し、1943(昭和18)年には「石川県女子師範学校」が設立され、男子校とともに、戦後は金沢大学の教育学部へと変わっていった。




































「石川師範学校」や「石川県女子師範学校」の沿革史やなどが展示されていた。


















金沢大学工学部の前身は、1920(大正9)年に「金沢高等工業学校」が新設され、1939(昭和14)年には化学機械科と電気工学科が増設され、昭和18年には、高等工業専門学校と改称され、第二土木科と電気通信課が増設され計8学科となった。
























この「金沢高等工業学校」は、1923(大正12)年に校舎が完成したが、その講堂に掲げられていたシャンデリアである。シャンデリア本体は真鍮製、塗料は漆であろうという。電線は火屋(シャンデリアの灯を覆うガラス部分)を吊り下げる環の中に入っている。右のちょっと写っている木製額の説明文は、当時の工学部長によるものという。
































大正時代には、現在のようにマルチメディアが普及していなく、教室にはモノの教材が多く置かれていた。「金沢高等工業学校」では、精緻な立体模型や輸入品などの工学機器があり、その構造や意匠の基礎を学ぶために実験、実習に用いられた。
島津製作所製造の橋梁模型「下路アーチ橋」は、大阪にある木津川かかっていた「旧大正橋」がモデルという。


2024年3月15日金曜日

 能登地震チャリティーコンサート 県立図書館 クルーズターミナル

 県立図書館に本を見に行ったついでに、ちょうどやっていた「能登半島地震チャリティーコンサート」を見た。(2月27日)

現在、地震で被害を受けた人を励まそうと、あちこちでこのような催し物をやっている。

会場は県立図書館のだんだん広場でである。入り口で募金をして会場に入った。

























階段状の会場に入ると、既に多くの人がいてほぼ満杯状態だった。















司会の人のあいさつから入り、和やかな雰囲気で始まった。ピアノは地元の「能登ヒバ」で作られたものだという。そういえば、この図書館にいつも置かれていて、いつでも誰でも弾いてよいというピアノである。



















今回のピアニストは「林 昌彦」さんで、若い時にヨーロッパや中近東などを旅しながら音楽を探求したという。その後は、様々な出会いから依頼を受けての作曲・演奏活動を続けているという。


















さすがいろいろな所で演奏しているので、ピアノの音色が素晴らしく、しばし我を忘れてうっとり聞かせてもらった。阪神・淡路大震災にもコンサートをやっているという。やはり音楽は、みんなを元気に楽しくさせる力を持っているのでよいものだと思う。


















続いて後日(3月10日に)クルーズターミナル金沢で「北國文化センター」で習っている人たちが演奏するチャリティーコンサートを見に行った。


















クルーズターミナルの近くには、大きな船(巡視船 のと)が接岸していた。


















会場では、いろいろなものを展示販売しているブースが並んでいて、多くの人が品定めをしていた。


















女性向きのアクセサリーなどが多いようだ。


















段ボールで作られた簡易トイレ・消臭袋とテントなど防災グッズも並べられていた。
























舞台では、北國文化センターの生徒たちの「フラメンコ」やキッズの楽器演奏や今流行りのダンスなども演技されていた。


















私も定期的に習っている「キーボード」教室の人たちなど多くの演奏の発表があった。どれも素晴らしい演奏であった。


















会場の出入口に能登半島地震被災地への応援メッセージが大きな紙いっぱいに貼られていた。

2024年3月9日土曜日

長町武家屋敷跡からおでん屋

 3月の初旬に久しぶりの「長町武家屋敷跡」を歩いた。まだ地震の影響が残っていて観光客少なかった。

「旧野村家」前の雪吊された梅の花の木

























「旧野村家」の土塀越しに藩政期に造られた素晴らしいといわれる庭園を見る。


















「武家屋敷土塀」が並ぶこの辺りは「長町武家屋敷跡」の一番の見どころである通りには、人ひとりいなかった。この時は「薦がけ」がまだされていた。















そして後日行った時は、「薦がけ」ははずされたばかりだった。





















はずされた「薦がけ」が「市指定登録文化財建築物」になっている「大屋家」の前庭に積み重ねられ置かれていた。



















「大屋家」の武家屋敷特有の瓦屋根の中から「門冠りの松」が出ている。
























平士(400石~)以上の武士が許されたという「長屋門」は、玄関の右に「武者窓」という通りを歩く人を見張る窓が付いている。また両側に「厩」と「仲間部屋」がある。ここは、現在は大聖寺にある会社の社長の「新谷家」で、「旧桑島家跡」である。「長屋門」の下方にある「戸室石」が車などに傷められないように石が並べられている。



















門構えが洒落た雰囲気の角にある武家屋敷


その先を歩くと「鞍月用水」に沿った「せせらぎ通り」に出る。



















ここは、金沢城を守るために造られた「西外惣構堀」でもあった。その名残がはっきり分かる。階段を上がると、建物の2階の裏側に出入り口となっていて「横道」という道が通っている。
























後方の「横道」と堀の間には、藩政期にはビル3階くらいの高さの土塁があったという。


この後、柿木畠にある「おでん屋」に久しぶりに行った。以前は行列が付いていて、なかなか入れなかったが、今日はすんなり入れた。

大好きな「牛すじ」や「大根」、「はべん」、「かんもどき」そして「バイガイ」も頼んだ。やっぱりなんとも言えない大好きな味だ。

昔はよく来たので非常に懐かしかった。
以前のブログ












2024年3月1日金曜日

旧四高の文化遺産の見学(3)旧四高の実験機器・教育掛図、物理化学教室

 旧四高の文化遺産の見学(2)旧四高の実験機器の続きで、さらに多くのものが展示されており、実際の原理を実験機を使っての授業で、より分かりやすかったのではと思う。明治政府が導入した近代的な教育は、実験を重視したもので、日本の近代科学史・教育史を明らかにするうえで四高の物理実験機器は、非常に高い資料だという。物理実験機は総数700点以上に及び、学術性とともに、工芸品としての美しさとアート性を備えたものである。















こちらは「物理天秤」と「化学天秤」で、片側の皿に分銅を載せ、天秤がつり合ったところで重さを図っていた。これは私もよく知っている。


















火花の長さを図る「火花長測定器」、ほかに「熱電計」や「光学的眼球模型」もあった。



















「ラジオメータ」は、真空に近いガラスのボールの中に、片面医白、もう一方が黒の羽根車がある。黒い面に接触する気体が温められて活性化し、羽根車が回転するという。
























「望遠鏡」は、内部のいくつかのレンズなどが配置されたものである。


















こちらのものは、「天体望遠鏡」であろう。
























これらの物理実験機器も他に、自然史資料として残っているのは少ないが、「教育掛図・標本」なども展示されていた。


















これらは何の「教育掛軸」だろうか?
























「桜島」の火山の爆発の様子を写した写真が「掛軸」として展示されていた。



















広い部屋にある棚には、まだ展示されていない多くの実験器具が保管されているようだ。


















旧四高の「物理実験室」の様子で、多くの学生が実験機を見ながら、その原理を学んでいる。































旧四高の「物理化学教室」があった建物は、そのまま現在、愛知県犬山市にある「明治村」に移築され残っている。以前、「明治村」に行った時に入ったが、中に「階段教室」があったことを覚えている。