東内惣構堀(1)に続き、味噌蔵町交差点方向に歩いていくと、広い通りに出る。ここの脇に「旧味噌蔵町」の標柱がある。名前の由来は、藩政期に軍用(?)の味噌蔵が建てられていたからという。
大通りを渡ると「段坂印判店」の横に東内惣構堀の跡が見えるが、この辺りに「九人橋」があった。
ここにも門番がいて、「九人橋」は「十人並んで渡ると九人の影しか映らない」という伝えから、その名が付いたという。現在は、兼六園から西田家庭園に流れ、東内惣構堀を通って、浅野川に流れる「九人橋川」として利用されている。
この先は、開渠となって住居と高い塀の間をぬう細い流れとなっている。塀の向こう側は高台となっているので、土居であった名残がある。
私の学生の頃に、この塀の上に「北陸鉄道」のバスの車庫があったと思うが、よく定期券を買いに来た記憶がある。
そして、「味噌蔵町小学校」の前で直角に曲がっている。
ここにある「味噌蔵町小学校」は100年以上の歴史があるが、来年に「材木町小学校」と統合されるという。町の中の小学校は、だんだん少なくなるが、これも少子化のせいである。建物の耐震化により、「小将町中学校」の横に新しく建てるということを聞いたことがある。私たちの頃は、「味噌蔵町」と「材木町」の児童は「兼六中学校」へ、「此花」、「瓢箪」、「馬場」の児童は「小将町中学校」へ行っていたという記憶があるが、今はどういう区分けになっているのであろうか?
階段を上がり、「兼六大通り」を渡ると、「東内惣構堀」の標柱が立っており、その向こう側に流れがあった。そして大きな建物の「小将町中学校」とグランドがあった。
この学校も大変伝統があり、明治14年に金沢区高等小学校として今の旧四高跡にあったが、その後、長町高等小学校に変わり、そして現在地に移り、戦後に「小将町中学校」となったという。ここには、一時、文豪の徳田秋声や室生犀星も学んだという。
グラウンドでは、真っ赤なユニフォームを着た野球部の選手が20~30名ほどが一生懸命練習していた。そういえば、今は午前中なのに部活をやっていたので不思議に思い、ネット裏から選手に聞いて見たら「午後に試合があるから特別練習です」と言っていた。サッカーだけでなく今も結構野球少年がいるのだなあと思った。私たちの中学生時代は大変野球部に人気があった。
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このすぐ裏に、お地蔵さんが祀られていた。「地蔵橋子安地蔵尊」といい、この地蔵尊は子供の病気、その他いかなることも祈誓願すれば必ず成就するので、本尊に拝花を供えて信仰したという。
この地蔵は加賀八家の「奥村内膳」が橋下に埋もれていたのを地上に安置したという。
町中にこういう「地蔵さん」があると心が和んでしまい、ついついお参りしてしまう。
中学校の裏に「小将町」の標柱が立っていて、藩政期、藩主の身辺を護衛する小姓頭や小姓組の侍がここに置かれていたからという。この辺りが東内惣構堀の始まりの場所であったらしい。