惣構堀は、城防備のために作られたもので、1599(慶長4)年に藩祖前田利家が亡くなり、2代藩主利長が金沢に戻され、徳川家康から謀反の疑惑をかけられ、前田家つぶそうとしているのを防備するするために、高山右近に命じて東西に内惣構堀(内堀)を作らせたものである。
西内惣構堀は金谷御門(現尾山神社横)から始まり、旧松原町を通り、近江町市場から袋町、彦三、旧母衣町の後を通り、主計町で浅野川に達する、全長1.6kmの堀である。
東西の内惣構堀は、緊急事態の中でなんとわずか27日間で完成させたという。
下図は1632(寛永4)年の「加州石川郡」絵図(石浦神社蔵)の絵図で、西内惣構堀は金谷出丸跡辺りから始まったことが分かる。
この辺りはもと「金屋町」といったが、その昔に小立野台地で砂金を発見したのは「金屋」と呼ばれる鉄や金を求めて歩く流浪の人たちが金沢の町を作った最初の人で、ここの最初の住人だという。
寛永の頃に金沢城の火災で、ここに藩主家の敷地として屋敷を作り、出丸として取り込んだといわれる。また、5代綱紀の頃に「金谷文庫」を設置し書院、馬場などもできたという。そして綱紀の娘が居住するようになり、さらに綱紀、6代吉徳の子供がここ金谷で誕生しているという。
その後も、隠居した藩主や側室および世子などが住む場所としての「金谷御殿」があった所である。その「旧金谷御殿跡」の横に大きな石垣があるが、この辺りが西内惣構堀の出発点であったようだ。後に、「いもり掘」から水を引き、ここに「金谷外柵御前土橋」があったらしい。
この石垣の傍らに「尾山神社氷室跡地」の石標が立っていたが、いつの時代かここにも氷室があったのであろう。そういえば、兼六園の山崎山の裏の「東外惣構堀」の出発点にも氷室跡が残っている。
また、その近くに金沢城に導かれていた「辰巳用水」の一部をこの「金谷御殿」にも通していたというが、そこに使われたいたという石管とその説明書の看板があった。
現在の西内惣構堀を利用した水は、広坂方面から流れる「辰巳用水」を流している。
尾山神社の鳥居の両脇の路地には、戦後から昭和40年代ごろまで飲み屋街になって栄えていたが、今はほとんど影を潜め、鳥居の右側の方は傾斜が緩いがが惣構堀の土塁を再現しているのであろうか。
尾山神社の鳥居の前に西内惣構堀の一部が再現されていた。
通りの反対側に「旧松原町」の石標が立っていたが、もと松原口の前にあったことからその名が付いたという。藩政期には権現堂御門前町ともいい、のちに御門前松原町といったという。
尾山御坊時代に金屋衆が住んでいた「寺内町」の外に松原があったところである。
そして、今の「大友楼」がある所に「不明門橋」あるいは「あかずの門」が架かっていた。竹田市三郎忠種の邸が神護寺の隣にあったとき、利常の6女の春姫を養育していたので、そのころ昼夜扉を閉めていて往来を禁じていたのでこの名が付いたという。