西内惣構堀(2)の続きで、その後、惣構堀は今の「市姫神社」付近をクランクして袋町から博労町に上がる坂の前に「袋町橋」があった。このクランクしている場所は現在の道路に沿っていないのでよく分からなかった。
カナカン本店前を右側に廻り、そして「旧桶町」の通りを左側に折れている。ここの通りは暗渠になっているが、現在は「母衣川」の水が流れ、用水蓋がずっと並んでいる。この通りと直角に繋がる小路が何本かあるが、不破彦三一族の邸地があって、代々その一族が一番丁から七番丁まで住んでいて「彦三殿町」とも呼ばれた。
そしてちょっと広くなってクランクしている所に「西内惣構堀」の石標があった。
「旧藩士の家の野坂邸」の前に「新橋」あるいは「勘解由橋」と呼ばれる橋があった。「野坂邸」は現在でも長屋門と土塀を残し、当時の武家屋敷の面影を残している。
「彦三一丁目」のとおりにある「新橋」を超えると右に曲がり、住宅地に入り見えなくなるが、「仏眼寺」の横を過ぎると、また開渠になり、「高田医院」、「カタニ産業」の裏を通る。
そして「恵寿金沢病院」(以前のNTT金沢病院)の横を通る。そういえば、60年近く前の小学生の時、クラスの仲間を見舞にここを訪れているが、その当時のままの建物であった。
その後、「主計町緑水苑」を通って浅野川に注いでいる。ここには、発掘調査に基づいて土居や堀が復元されている。この大きさのものがずっと町の中を貫いていたと思うと、すごいものがあったのだと想像する。立て看板によると、堀が掘られてから幕末までの間は、堀幅はほとんど変わらなかったらしい。明治になってから大幅に埋められたという。(堀の深さは、江戸時代の遺構を保護するために、実際より浅くしている)
「主計町緑水苑」近くの主計町茶屋街