2015年7月3日金曜日

昔の金沢市内電車(街鉄)展

先日、泉野図書館で、昔、街中に走っていた金沢市内電車(街鉄)の写真などの展示会があったので見てきた。この電車は私の身近な所を、20歳のころまで走っていたし、よく利用したのでので大変懐かしく思った。


























それまで馬車鉄道しかなかった金沢に電車が走ったのは1914(大正3)年で、金石と長田を結ぶ金石鉄道が初めてで、その後、野々市から鶴来の石川電鉄、そして金沢市内は1919(大正8)年にようやく金沢停車場から公園下が開通した。さらに次々と6路線が走るようになった。それにより街中の道路が大きく変貌した。
この市電を走らせるには多くの困難があったという。まず資金の問題と藩政期からあまり変わっていない金沢市内の狭い道路と、周辺住民の反対という問題があった。しかしこれらを解決していったのは、時の市長の山森隆を中心とする人々であったという。金沢市内の道を拡げ、線路を敷くということは大変な工事であったことが想像される。












「石川歴史館」より







その後、48年間金沢市民の足として親しまれたが、車が多くなり次第に邪魔者扱いにされ廃止になってしまった。
昭和の初期の頃であろうか「金沢見物電車路線駅六」という双六が展示されていた。路線両側の商店の名前も載っていたし、「振り出し」が「金沢停車場」、「浅野川大橋」(この頃は、東金沢駅まで開通していなかったようだ)と「小立野」で「上がり」が「松任」となっている。




















大正末期の金沢駅付近と市電の様子。地面は土のようだ。




















市電は見えないが、昭和初期の頃の金沢駅付近。クラシカルなバスや車がたくさん走っている。




















大正中期の武蔵が辻の様子で橋場町、近江町方向を見る。




















昭和初期の武蔵が辻で右手の建物は「丸越デパート」で、このころ信号がなかったので、交差点の真ん中に台の上に立っておまわりさんが「手信号」をやっていたのは私も覚えている。丸越デパートの向かいの三階建ての瓦屋根の建物とその後ろの大きなビルは何だったのだろうか?奥のほうに「石黒ビル」と卯辰山が見える。




















大正末期の南町付近




















昭和10年代の南町付近は洒落たデザインの三階建てのビルが並んだいる。もしこのままの姿が残っていたら、レトロな建物群として観光名所になっていただろうと思う。




















大正中期の香林坊から方舞方向を見たもの。香林坊橋が見える。








































犀川大橋方向から片町方面を見たもので、市電の線路ができる前の写真





















大正中期の犀川大橋から片町方向を見たもので、上の写真より道幅がずいぶん広くなっている。




















電車が通る前の寺町大通り付近で「松月寺」の大桜が見える付近の
写真で、マントを着た人、着物を着た人や軍服を着た人がいる。




















電車を通すために道幅を広げたが、「松月寺」の大桜を残すために反対側(つば甚側)だけを広げたという。




















大正初期(まだ電車の線路がない)の兼六園下の様子





















大正中期(電車の線路ができたばかりのころ)の兼六園下の様子
1965(昭和40年)にこの先の「尻垂坂」(現兼六坂)で、電車が暴走し、兼六園坂下で横倒しとなり、死者や重傷者がでる大事故があり、これをきっかけに急速に市電廃止論が起こった。




















大正中期の「石引通り」の様子。まだ道幅が大変狭い。




















道幅が広くなった「石引通り」。左側は今の「金沢医療センター」前





















「昭和30年代の市電」の様子は私もよく知っている。この写真を懐かしがるのは55歳以上くらいの人だろう。