2015年7月22日水曜日

東内惣構堀(1) 枯木橋 稲荷橋 黒梅屋橋

前回の西内惣構堀を歩いた後、今度は、すぐ近くにある浅野川に注いでいる東内惣構堀を逆方向に源のほうに向かって歩いた。








































北国街道が城下に入る要所であった「枯木橋」には、門「木戸」を設けて通行人を管理していた。この橋の両側は、始め自然の崖を利用した斜面だったが、18世紀以降、堀外側次いで土居側に石垣を築いている。堀の外側では、古い石垣を埋めて前面に新しい石垣を築き、さらに堀幅を狭めた。堀の両側に石垣が築かれたのがこの辺の特徴であるという。




















「枯木橋」付近にある「金沢文芸館」の横に「まむし黒焼 東田薬店」という看板を掲げた古めかしい店があった。ここのショーウィンドーには、とぐろを巻いた蛇とスッポンがが並べられていたが、何となく気持ちが悪かった。いつごろからここで商売をやっているのだろう?




















この店の隣にも東内惣構堀の整備された所があった。右端の石が並べられた所が一番古く、真ん中の石が置かれた位置が次の代の石垣の位置で、現在はもっと狭められている。




















これを説明した立て看板にあった図




















少し行った所で右側に曲がり、さらに左側に曲がっている。ここの尾張町方向に坂があったが、土居の名残だろう。





















ここの通りを歩くと、十間町方向に行く道路に出る。ここに「稲荷橋」という橋が架かっていた。





















さらに進むと有名な加賀藩士「寺島蔵人」邸がある。この建物の中については以前のブログで紹介している。





















さらに歩くと「千仙そう宗室居士邸」という古めかしい家があった。この人は3代藩主利常、4代光高に江戸本郷で茶道の指南役をして加賀藩と関わるようになり、利常が小松に行った時に茶道奉行を務め、利常没後、金沢に移り200坪の邸地を受け賜わったという。この地はその一部であるという。
表札に「裏千家 奈良」とあったが、大樋長左衛門さんの次男の方が所有されているのだろうか?




















そのすぐ先に、大手町へ通づる大きな通りに出たが、ここに「黒梅屋橋」、別名「胡桃橋」が架かっていた所である。ここはほとんど傾斜が無かった。