2015年6月17日水曜日

天徳院 加賀藩主前田家歴代藩主 追善法要 

今回は「百万石まつり」のイベントのひとつである「加賀藩主前田家歴代藩主 追善法要」と講習会、寺宝の説明があるということで小立野にある「天徳院」に行ってきた。ここには、私は10数年前に訪れたことがあるが、それ以来である。




















天徳院は1623(元和9)年に3代藩主利常が正室珠姫菩提のために、金沢城の東の小立野地区に4万坪の広大な敷地に天徳院を創設した曹洞宗のお寺である。1645(正保2)年に4代藩主光高が亡くなり、その時、天徳院境内前田家御廟として、老松樹林を植え、参道には諸大名の献燈籠が108本並び、道には石を連ねて敷き、その趣は厳然たるものであったという。1671(寛文11)年に珠姫の遺骨は、天徳院境域に祀られてあったのを野田山に改装された。1639(元禄6)年に5代綱紀が4代光高の50回忌供養のために10年の歳月を要して天徳院の全堂宇を明朝式に造営したが、1768(明和5)年の火災で多くを焼失し、現在その当時の建物として残っているのは山門のみである。この山門は三間一戸の二階二重門で入母屋作り、平入、本瓦葺きの山廊が付いている。






















山門の両側にある「仁王尊像」はこの寺の諸仏の中で一番古いもので、魔除招福の守り尊である。



























1769(明和6)年には10代重教がわずか70日の突貫工事で本堂庫裡などを再建した。唐破風の屋根で、あちこちに剣梅鉢紋が見られた。





















山門から本堂へ行く通路の途中の角に、大きな石の前に琵琶を持った「水かけ金洗い弁財天」という福徳をさずけ財物を与える神様とあったので、丁寧にお参りしてきた。




















本堂の中に入ると数十人のお客さんが来ていた。早速、ここの住職を中心に加賀藩主前田家歴代藩主の追善法要の読経が始まり、その後、「梅花流詠讃歌」という歌が唄われた。これを聞いたのは私は初めてだが、お釈迦様などの教えを学び、その教えを「お誓い」のもと実行しようとするものらしい。




















その後、お目当ての横山方子さんの講演会があった。前田家歴代の藩主と奥方の家系の資料を元に、いつもながらの流暢な語りでの話があった。珠姫を始めとして徳川家関係から嫁に入った奥方が多いことを話された。珠姫は3歳で前田家に輿入れし、14歳からの10年間で7人とか8人といわれる子を産んだという。それまでは安産だったが、最後の夏姫を産んだ後、体調を崩し、24歳で亡くなった。珠姫の生涯は、加賀百万石を危機を救い、その繁栄に尽くし、まさに良妻賢母、日本女性の鏡として今も金沢市民に親しまれている。
4代光高や溶姫(13代斉泰の正室)などの墓はずっと天徳院の境内にあったが、今の小立野小学校を建設するということで昭和27年に野田山に移されたことを知った。後で小立野小学校を卒業をした友人から聞いた話だが、土葬のお墓だったので移す時のいろいろ不気味なエピソードが残っているらしい。




















この後、この寺の寺宝を見て回りながら説明を受けたが、狭い通路だったので横山さんの話はよく聞こえなかったが、次のものなどがあった。「見返阿弥陀立像」は永観律師が眠気のため立ち遅れたため先導していた如来が「永観遅いよ」と後ろを振り返ったのを基にして作られた像、「管氏大宗祠」は管氏とは菅原道真の子孫である前田家をあらわし、ここ天徳院は前田家の大殿堂(大宗祠)であるという扁額







http://tentokuin.arunke.biz/より





「存星卓」は、中国明時代(桃山時代)の作といわれ、天徳院建立の際に3代利常が寄進したもの。「霊鐘」は12代斉広が竹沢御殿の時鐘として鋳造されたが、その鐘が枕元に現れて「天徳院に行くを望む」と言ったという。斉広は「この梵鐘の音を聞いたものは苦悩を免れる」ということで天徳院に移すことを命じた。



http://tentokuin.arunke.biz/より

剣梅鉢紋が入った大きな香炉(?)がある山門から本堂に向かっての参道、灯篭や木々の眺めも情緒があってよかった。

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