前回の石川県立歴史博物館 前田家の参勤交代(3)の続きで、この参勤交代の計画、宿のスケジュールや予約などは供家老が行った。旅の途中でトラブルがあって、次の宿を変更せざるを得ない場合もよくあったらしい。そういうときに便利な下図のようなダイヤグラムを使った。11泊12日と9泊10日両日の1日行程が配列され、どの宿場からでも自在に旅程を組むことができるようになっている。例えば、最初の日に「今石動」に泊まった場合、次の日は「下村」か「東岩瀬」か「滑川」に泊まることになるが、それぞれどれくらいの距離があるか一目でわかるようになっている。加賀藩の軍学者の有沢永貞が考案したものである。
北国下街道の各宿場にあった本陣跡は今でもあちこちに残っている。糸魚川宿には、宿に泊まったお礼として藩主から頂いた大樋焼の茶碗が残っているし、藩主が飲んだというお酒も、江戸時代から作り方が変わらないのでそのままの味が残っているという。また、上越市の浄土真宗派の安楽寺には、参勤交代の様子を伝える書状が最近確認されたという。
下図の写真は、前田の藩主が飲んだというお酒を売っている糸魚川の「加賀の井酒造」である。一度立ち寄って味見したいものだ。
大名行列の費用は、宿泊費の他に川銭(川越賃)、行列に携行する諸道具の買上代、修復代、出張扶持代(日当など)、江戸までの荷物運搬の駄賃など、当時の金額にして銀320貫を払っている。これを現在の価値に換算すると、いくつかの物差しで換算する方法があるが、精米を物差しに当てた場合で計算する。
江戸時代は一両相場に米一石と言われたもので、白米一石がおよそ一両(=銀60匁)であった。現在は、白米一石=71500円とすると、白米一石=一両=60匁=71500円。また銀1貫は1000匁なので、銀320貫は32万匁となる。この銀高で昔は白米が5333石買えた。今、5333石のお米を買おうとすると、71500円×5333石=3億8130万円になるという。
http://goo.gl/m81p1Kより
3代前田利常が小松に隠居後の一族の参勤交代の様子を見ると,利常は隠居後も参勤交代をしていた。4代光高が亡くなった後、5代綱紀が相続したが幼少なので、利常が江戸に残り、江戸城天守台石垣普請を担当した。
光高が藩主であった6年のあいだに参勤交代は2度と少なく、国許に居る期間は短かく、その時は利常が江戸にいた。光高は、3代将軍家光の甥で、江戸城儀式では「御家門」御三家に次ぐ位置にあった。
利常の次男で富山藩の利次は9月に参勤し、3男の大聖寺藩の利治と入れ替わりとなっている。従って、父の利常とともに二人とも半年は江戸に居たことになる。富山藩や大聖寺藩などの小さい藩も当然ながら参勤交代があった。
5代綱紀は3歳で家督相続したが、18歳まで江戸に居た。その後参勤交代は30回と、歴代藩主の中で一番多い。次に多いのは13代斉泰18回、11代治脩14回である。
江戸での大名の主な任務は端午などの節句の将軍家の祝いや病気、お礼、将軍家の祭礼・法事(紅葉山、増上寺など)、将軍供奉(日光参りや品川の鷹狩りなど)、暇と参勤時の御目見、能見物や茶会などの仕事があった。下図は加賀藩江戸屋敷があった「江戸本郷」付近の絵図と「加賀藩本郷邸」の絵図である。
参勤交代については「参勤交代道中記」 忠田敏男著を参考にした。
他に、石川県立歴史博物館の展示物で私が興味を持ったのは、1933(昭和8)年の吉田初三郎作という「石川県鳥瞰図」で、何人かで石川県の温泉や観光地をスケッチしたものを元にして描いたという。石川県全体が描かれているが、特に金沢付近は金石の海から白山までが描かれていた。その頃にあった金石の「檮々園」や「粟ヶ崎遊園」、そして「第四高等学校」、「第一中学校」や兼六園内には「県立図書館」、「商品陳列所」なども描かれていた。私が生まれる十数年前はどんなだったのかと思い、長く見ていても飽きなかった。