「中の橋」は浅野川の大橋と小橋の間にかかる歩行者専用の橋で、「梅の橋」とともに金沢らしい風情のある橋である。藩政期時代は架橋が許可されず仮橋だった。渡し賃が一文であったため「一文橋」や「賃取り橋」ともいわれた。
この橋から馬場方向に歩くと、二つの長い道筋が走っている。ここは「関助馬場」と呼ばれた長さ300m、幅24mの藩士の調馬場があった。これを「東馬場」と呼び、法船寺馬場といわれた犀川の「西馬場」と対照させたものであるという。
3代利常のころに歩組の「佐賀関助」が荒廃した馬場を再興したことからこの名前が付いた。その標柱がこの二つの長い道筋の中の小さな緑地の前に立っていた。
そして、卯辰山開拓の時に山頂に建っていた芝居小屋が衰退したので、建物をこの「関助馬場」に移築し「戒座」と称し興行したのが「馬場芝居」と呼ばれ、浅野川方面にできた最初の芝居小屋であったという。その名残を示すための石垣を表示してあるという。(後述のあうん堂で聞いた)
この通りの一角に古本の販売とカフェをやっている「あうん堂」という店に入った。この店頭はあまりに狭いので、よく見ないと見逃してしまうほどである。ここでは古本を見ながら珈琲を飲めるという。
ここで、珈琲を頂きながら主人からこの辺の様子を聞いた。この人は最近「かなざわ案内地図帖」というものを出版した。これには、「金沢町歩き」の時にちょっと立ち寄りたい自分の好きな店などを記してあり、「ふらっとバス」、「まちバス」や「金沢周遊バス」のルートや停留所などの市が詳細に記されていて、「金沢町歩き」の人に非常に便利そうなので私も一つ買った。
「あうん堂」のご主人に聞いたが、この近くの「藤本玩具店」の藤本吉二氏は、それまでの「おはじき」が碁石やガラス玉でできていて、子どもが飲み込んで喉を詰まらせることがあったので、これを防ぐため、ジャガイモ澱粉で作り真ん中に穴を開け「花はじき」を工夫した。
大正時代から昭和40年代まで、赤や青、ピンク、黄色など、いろいろな「花はじき」を玩具として製造していて全国で好評を得ていたという。また、藤本氏はこの発明以前に、苦い薬を飲む時使うオブラートを発明したという。この発明を大阪の会社に権利を譲渡したというが、譲渡していなければ、今頃は大きな製造工場ができていただろうという。
ここのすぐ近くに加賀麩司「宮田」がある。「不室屋」と並ぶ加賀麩の老舗である。この店には国産小麦のグルテンを使った加賀特産の「すだれ麩」などの「生麩」や「車麩」などの「焼麩」や麩菓子などを売っている。
ここの女将さんはやり手で、以前NHKの番組「ためしてガッテン」に出演し、麩の料理方法や麩が体によいことを説明していたことを覚えている。
店の隣には、風流な構えの「宮田庵」では、麩料理や麩菓子と抹茶などが味わえる。