大名行列の出発は金沢城の「大手門」で、枯木橋から大樋松門を通る。ここまでは、このジオラマのような整然とした行列であるが、それ以後は行列は乱れ、服装も簡易なものに着替えて歩きやすいようにしていたという。城下の人々には威厳を見せるためだったという。次の写真は「石川門」からの出発になっているが、実際は「大手門からである。
第1の宿の「津幡宿」には「御旅屋」(おたや)と呼ばれる本陣があり、畳370畳、周囲は1632間あり、大名などが泊まったり、休憩したりしたという。脇本陣には随行家臣などが泊まったという。高岡の宿場は加賀藩領最大の本陣跡が残っているという。
宿場の本陣には、行列を迎えるための陣幕が張られ、提灯がぶら下がっていた。宿場の入口には、宿割の案内図が貼られ、それぞれの家の軒先に「○○御上下○○人御宿」と記した宿札が掛けられていた。
金沢市立図書館蔵
北国下街道は、加賀、越中、越後、信濃の国を通って中仙道までの間に、川幅5m以上の川を73渡らなければならなかったが、このうち橋が架かっていたのは43で、残りは架かっていなかったので、歩渡りもしくは渡船、あるいは仮船橋を架けて越さなければならなかった。前田藩内の橋は多く架けられていたが、隣の藩に近い川には防衛上もあってか、あまり架けられていなかった。
越中の黒部川は大河で水量が多く、網の目状に分流していたという。勢いが激しく、その川渡りは命がけであったという。
特に春の雪融け時には、48瀬も分流していたのが、ただ一瀬になって川幅一面に海のように流れていたという。
金沢市立図書館蔵
5代前田綱紀が18歳で初めて国入りした時に、黒部川を渡るのに非常に困難を感じ、金沢城に着いて老臣に架橋を作るよう命じ、山麓を迂回させて、黒部峡谷が扇状に拡がろうとする扇頂部に橋を架けさせた。
その橋が「越中富山の天下の奇矯」と謡われた「愛本橋」で、甲斐の猿橋、岩国の錦帯橋とともに日本の三奇矯のひとつに数えられている。「愛本橋」は刎木形式の橋で、長さが60mもあり、当時としては世界的にも例のない大規模な木橋で歴史的にも貴重であったが、明治の頃に架け替えられたという。今も刎橋が残っていたら、かなりの観光スポットとなっていただろう。
http://atsites.jp/yoshitoharada/1576_bridge2-6.jpgより
北国下街道の最大の難所は、海のすぐ近くが断崖絶壁になっている「親不知」である。上街道を通った9回の理由は、「親不知」付近の崖崩れと日本海の高波による道路の決壊や信濃路に起きた地震とその後に続いた群発地震などの災害の危険を避けるためだったという。
この「親不知」のわずかな砂浜と砂利道を通る際に、海の前に人足が何百人と並んで海の波を除けて大名行列が通ったというからすごい。
金沢と江戸のちょうど中間点に旧牟礼宿(現在の長野県飯綱町)に、最近、12代斉広の正室の真龍院の歌碑が建立されたという新聞記事が載っていた。
真龍院は1838(天保9)年に、江戸屋敷から加賀屋敷へのお国下がりが許され、18泊19日の道中の旅日記「越の山ふみ」に残し、各宿場の様子と心情を和歌でつづったという。牟礼宿では「住みすてし あとの名残を 思ひ出の そこに露そふ 旅の中道」と詠んでいる。これは「道中の半分まで来たことを喜び、半面江戸から遠くなることを心細く思っている」と推測されるという。
牟礼宿では加賀藩参勤交代が通過すると、金沢城と江戸屋敷双方に向けて早飛脚を出し、道中の無事を知らせたという。
北陸新幹線開業の話題からこの話が持ち上がり、歌碑が建立されたという。
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawaより
飯綱町といえば15~20年位前に、私のテニス仲間の会社の保養所があり、ここを利用して夏はテニス合宿、冬にはスキーで何回か来たところである。