大野湊神社についてはこのブログの2013/9/17で紹介している。
ここの神事能は、大野湊神社の春季例祭のときに境内の能舞台で挙行され、なんと400年以上も連綿と続いているという。2代藩主前田利長が、関が原の戦いで丹羽長重の軍に勝利し、その報賽として本殿の修復、拝殿の建立とともに能舞台を造営して、神事能が再興されたという。
この時、1604(慶長9)年に小松辺にいた諸橋太夫という能役者に神事能を行わせている。当初は前田家の保護により続けられていたが、1661(寛文元)年ごろから能舞台の修復も大々的に行われ、宮腰の町は繁盛してきたので、神事能の費用を船持ちの人から奉加しようということになり、能興行は藩から氏子の手へと移っていくことになっていったという。
1677(延宝5)年に諸橋家が江戸へ移ったために、その代わりとして波吉家が行った。しかし、やがて諸橋家が加賀へ戻ってきたために、以後一年ごとに波吉家と諸橋家が交替で勤めるようになったという。
大野湊神社の神事能は、昭和60年に「寺中の神事能」として金沢市無形文化財に指定されている。
能舞台の前には、既にお客さんが椅子に座り、また報道関係者も大きなビデオカメラを抱えて待ち構えていた。
拝殿で丁寧にお参りをしてきた。その拝殿の上には、「従三位前田斉泰奉書 大野湊神社」と書かれた立派な額が掲げられていた。13代斉泰は最も能が好きだった藩主のひとりである。
従来は8月15日に行われていたが、1685(貞享2)年より4月15日(旧暦)に催すことになったという。そのわけは、祭礼当日は朝から近郷付近の人々が大勢押しかけるために、畦豆や農作物が踏まれて困ると近在の農家から苦情があり、またこの頃は雨が多い季節であったので変更になったという。
平成21年には、第400回を迎え、約100年ぶりに舞台が改修され、新しくなった総欅の舞台で、記念能として慶長9年の第1回の番組と同じ「翁、高砂、田村、熊野、三輪、猩々」が素謡と能で奉納されたという。
今年は406回となるが、まず「小袖曽我」という素謡から始まった。
続いて、御婦人方による素謡「吉野静」があり、金石の幼稚園児による連吟「鞍馬天狗」があった。
地元の人にとっては、将来も永く続くように幼い子供の頃からこういうものに馴染ませようということであろう。
そして、お目当ての能の「玉葛」(たまかずら)、「鵜飼」が奉納された。
大筒、小筒、笛のの人たちが、「シテ」、「ワキ」の演技に華を添えていた。
能楽は日本が世界に誇る芸術で、幽玄な世界観を表現する奥深いものだという。私は相変わらずなかなか興味を持てなかったが、前もって役柄や番組を読み、ストーリーを心得ることで、曲目や演技者の一挙一動が楽しめるようになってくるという。
江戸時代には藩主が没頭したという能を少しでも味わえるように、次回は番組を読み「あらすじ」を掴んだうえで能楽を鑑賞したいと思う。