2018年6月1日金曜日

浄光寺 おてらくご

今回は、私が所属している団体の先輩に誘われて、森山町にある「浄光寺」で「おてらくご」というものがあるということで見に行った。(5月13日)



















「おてらくご」というのは、「お寺」と「落語」を掛け合わせて生まれた造語であるが、もともとから深い結びつきがあり、一説によると、お寺の法話の中の「笑い」のエッセンスが落語に発展したといわれている。「おてらーと」は以前から聞いていたので知っていたが、「お寺」も昔と違って、いろいろなイベントが開かれているのだなあと思った。
























「浄光寺」は真宗大谷派の寺院だが、600年余り前に浄教房圓成を開祖として親鸞聖人の開顕された教えをいただき、ことに蓮如上人の直釋を仰ぎ、浄土の真宗の道を展じてきたところであるという。現在の地に来る以前には、1613(慶長18)年~1732(享保17)年の間は、現在のひがし茶屋街にあり、「浄光寺」跡にあった松は大切に保存され、今でもお茶屋「藤とし」の屋根越しに見ることができ、大勢の観光客で賑わう茶屋街のシンボルとなっている。
現在の地は、藩政期には、「大衆免浄光寺門前」ともいわれ門前町として商店も多くの軒を並べていたという。





















「藤とし」の1Fの玄関、2Fの床の間を通り、そして屋根越しに見える松



















お寺の本堂には数十人のお客さんが集まっていた。本尊が祀ってある内陣前の柱や梁そして素晴らしい彫刻がされていて金色の素晴らしいものであった。修復されてからまだそんなに時間が経っていないようである。



















本尊は「阿弥陀如来」である。
























早速、住職さんのあいさつがあり、「正信偈」の唱和から始まった。「正信偈」とは浄土真宗の要綱を七言60行120句の偈文にまとめたもので、大きなディスプレーにその偈文が映しだされていた。お寺でも最先端の便利な技術が使われている。



















続いて、住職さんの法話があり、「ありがとう」の反対は「あたりまえ」で、今居ることや生きているのが「あたりまえ」でない。「おかげさま」と言える人生に孤独はないなど「ありがたいお話」が聞けた。



















そして、「立川吉幸」さんの落語については、こんなに近くで生の落語を聞くのは初めてである。落語は一人の人がしゃべって、聞いている人はいろいろと想像する。それで笑うのは頭を使っている証拠なのでボケないと言っていた。
この落語家の話は、さすがに言葉が次から次へと出てきて、声に迫力があった。



















この「おてらくご」はいろいろなお寺でやっており、たまに生の落語を聞くのも気晴らしになるし、日頃見れないお寺の本堂の中を見れるので、前もってやっている時期とお寺を確認し、また見に来たいと思う。他にピアノやトランペットなど楽器の「生演奏」や「仏教講座」もやっているらしい。
お寺の帰りの道に丸い大きなマークがあったが、何を示しているのであろうかと思い、後日、付近の交番で確認したら、ここはいくつもの細い小径が枝分かれしている所であるが、目の不自由の人たちが、道の方向を迷わないためのものであるといっていた。