2018年6月23日土曜日

白菊町界隈 旧白菊町駅 瑞泉寺

千日町界隈の続きで、また、元に戻り「室生犀星記念館」を通り過ぎると、「白菊町」の標柱があった。ここには「加賀藩士、前田平太夫の下屋敷があったところで、その定紋「菊一文字」にちなんで、この名がついた」とあった。
























犀川の「新橋」から「白菊町」交差点までの道には、「瑞泉寺」などがあるが、今から50年位前までこの付近に北陸鉄道の石川線の始発駅「白菊町駅」があり、小学生のころに何度か来たことをかすかに覚えているが、どんな駅だったかまったく記憶がない。



















下図は昭和29年ころの地図



















今は旧白菊町駅の面影が全くないが、どこにあったのかと思い、近くの郵便局に入り、ここの職員の中では一番年配の人に聞いたが「全く分からない」という。そしたら、ここに来ていたお客さんで年配の叔母さんが、「恐らくあのマンション辺りではないか」と言っていた。



















さらに奥に歩くと以前「北陸冷蔵」があったところは「白菊町緑地」になっていた。



















その緑地の横に「出村製作所」という、前に木材がいっぱい並べられていた製材所があった。犀川大橋から御影大橋までの左岸では、かっては鶴来方面からの木材の集散地で、石川線の「白菊町駅」まで輸送したため、この辺りに製材業者が軒を並べていたという。



















「瑞泉寺」は寛永年間(1624~1644)創建された真宗大谷派の寺院である。石川郡押野の上宮寺に越中国井波の瑞泉寺第8世・准秀の次男・宣心が入寺、瑞泉寺と改名した。享保年間より東方の触れ頭役担ってきたという。



















この寺には、親鸞聖人御真影、蓮如上人御真筆名合および触れ頭文書を含む17,838点もの古文書が残っているという。この文書は藩政時代の加賀藩による寺社統制の具体相と真宗寺院の在り方を知る上で、質・量ともに県内に遺存する最も貴重な基礎史料であり、金沢城下町における生活文化を理解する史料としても重要だという。



















山門や本堂の周りには、彫刻で有名な越中井波と思われる細やかな彫刻がなされたいた。

































境内の参道の脇にある赤戸室の灯篭と鐘楼

































お寺の前に「旧五十人町」の標柱があり「藩政前期、加賀藩士小幡宮内の下屋敷があったが、のち、足軽五十人組が住んだので、この名がついた」とあった。
























この辺りの幕末の古地図