2018年6月6日水曜日

経王寺 加賀藩主前田家歴代藩主 追善法要 

今回は、百万石まつりの前日に加賀藩主前田家歴代藩主 追善法要ということで、3代藩主前田利常の生母の「寿福院」の菩提寺である小立野の「経王寺」に行ってきた。この催しに参加するのは、3年ぶりで、その時は「天徳院」であった。



















その法要がある前に、お寺から少し離れたところに境内墓地があり、そこに有名な人たちのお墓があると聞いていたので見に行った。まず目に入ったのは「真如院」の墓である。この人は、6代藩主吉徳の側室で「大槻伝蔵」と組んだ「加賀騒動」の悲劇のヒーローである。



















また、「寿福院」の生母「寿命院」のお墓もあった。

























他に、今の金沢駅近くに屋敷があった足軽頭で大坂夏の陣で活躍したという2400石の「篠島家」の墓もあった。さらに、明治初年に江戸から金沢に移住した「本阿弥光悦」の子孫が建てたという墓碑や、東京オリンピックの日本選手団団長の「大島鎌吉」の墓もあるという。
























「経王寺」に戻り山門をくぐると、その横に「体の悪いところに水をかけ、お参りすると治るといわれている」地蔵菩薩像があった。

































その後、本堂に入ると招待者と一般者の人たち数十人が来ていた。そして僧侶の読経と参拝が行われ、加賀藩主前田家歴代藩主の遺徳をしのんだ。

































その後、お待ちかねの横山方子さんの「前田利常の母寿福院と孫たち」と題しての講演があった。30~40分であるが内容については全く頭に入っているようで、いつもながらの流暢で分かりやすい話し方で講演された。
経王寺は、3代利常の生母寿福院(千代保)が越前府中より日護大徳を招いて、小立野に1605(慶長10)年に建立した。千代保の母が利家の正室のお松の方の侍女であったが、加賀藩士と再嫁したことにより、千代保がお松の方の侍女となったものと考えられるという。秀吉の朝鮮征伐のために、利家が肥前名護屋に赴いたときに、千代保が伴っていき、利家の子を懐妊して金沢に帰り、産んだのが利常である。
利家の死後、寿福院となり、慶長19年に芳春院と替わって江戸に人質として入り、寿福院は寛永8年に江戸で亡くなった。享年62歳だったという。池上本門寺で荼毘にふされ、経王寺で本葬儀が営まれ、遺骨は妙成寺に、遺灰は当山に納められた。
寿福院は、徳川家康の側室お万の方と利常と珠姫の次女で広島藩浅野氏の正室となった自昌院(満姫)とともに、同時期に日蓮宗寺院の整備に多大な功績を残し、日蓮宗三大女傑とも言われる。



















経王寺は藩政期には、境内地が約1万坪あったが、明治初期に金沢監獄(のちに金沢美大)、明治43年に医学専門学校設立のために現在地に移転した。



















寿福院の寄付と伝えられている「日蓮聖人画像」、「宝塔絵曼荼羅」、「鬼子母神・十羅刹女画像」が飾られていた。