2017年5月30日火曜日

笠舞界隈(2) お救い小屋の地蔵と清光の碑

笠舞界隈(1)の続きで、その後、周辺を歩いた。この辺は湧水が多くみられ、このような湧水を集めて飲み水やその他に利用する小屋であったのだろうか?
























笠舞は、藩政期には田や畑ばかりの村であったようだが、昭和30~40年代に住宅街に一変し、今ではほとんど隙間なく住宅が建っている。



















密集した住宅街の中に教会の尖塔が見えた。



















戦後に建てられた住宅が多い中で、ひときわ目立つ武士系の町屋を見つけた。屋根下の白漆喰壁の三角部に梁組が見られる。



















1階部分の屋根に、お寺でよく見かける鬼瓦とその下に懸魚があった。



















少し歩くと、「笠舞の地蔵尊」があり、何体もの地蔵が並んでいた。
1669(寛文9)年、加賀では夏から冬にかけて暴風雨のために大洪水になった。58,000石分の田畑などの被害を受け、これにより多くの貧乏で生活に困っている人が出た。そこで5代藩主前田綱紀が、玉泉寺や本願寺末寺で窮民に粥を配り、また、大釜30個、1日白米42石分の粥を配給したという。そして、窮民たちの戸籍を調べたうえで、これらに人々を収容する施設として笠舞村に数棟のお救い小屋を作らせ1753人を収容したという。
この お救い小屋ははじめは「非人小屋」と呼ばれ、施設や作業場を設け、乞食や浮浪者、病気などで日常生活ができない人を収容した。そして食料をはじめ夏や冬の衣類を与えて、自立できるように援助したという。のちにお救い小屋と呼ばれるようになり、幕末まであったという。




















特に、1830(天保元)年からの数年間は、加賀藩でも大飢饉に襲われた、このころはお救い小屋には4,000人も人たちが収容されていたという。この地蔵尊は天保の飢饉により お救い小屋で飢えや疫病で亡くなった人々を供養のために安置されたといわれている。




















この近くに「刀鍛冶の名工 藤原清光」の碑があると聞いていたので散々探したが、アパートの角にひっそり立っているのを見つけることができた。




















藤原清光は古藤島の伝統を守り通りした刀鍛冶の名人だったが、当時売れた派手な流行の刀に背を向け、時代遅れとされた伝統的な刀を作り続けたという。そのため刀は売れず生活が貧乏で、ついに飢えと寒さに耐えかねて、妻子を連れてお救い小屋に入ったという。清光親子は飢えから逃れることはできたが、刀を打つことができなかった。それを聞いた藩主綱紀は、お救い小屋の中に鍛冶場を作らせ、原料や燃料を与え、できた刀を買い上げた。その後、清光・長男・孫と三代にわたってお救い小屋で刀を打ち続け名工(非人清光)として高く評価されているという。
このことが碑に下のほうに刻まれていた。また上のほうは刀の刃を表現しているようで、波紋などが見られた。