弥生界隈(1)の続きで、さらにその建物の裏に周ると、対照的に建ったばかりの新しい「泉中学校」と「泉小学校」の建物があった。「泉小学校」は「野町小学校」と「弥生小学校」が合併してできたところだ。黄色い帽子をかぶったかわいい1年生が元気よく「こんにちわ」と言ってくれた。
従来の「泉中学校」の校舎をこれから壊してグランドにするそうで、現在はグランドがない。そういえば、私の中学生のころに、この弥生小学校と泉中学校が火事で燃えてしまったことを思い出す。あれからもう55年以上になる。
戦前は、この広大な敷地には「石川師範学校」とその付属小学校があり、その「守衛舎」だった建物が新しく白く塗られ「ふれあいの家」として残っていた。それより以前の幕末には「調練所」だったという。そのころには、鉄砲、弓や刀だけでなく洋式訓練もやっていていて、羽織姿の青年兵士たちが金沢城から、太鼓や笛を鳴らしてここまで行進してきて練習したという。
1907(明治40)年に小学校令の改正に伴い正教員の養成が急務となり、今までの師範学校一校ではその要請にこたえることができなくなったことから、同一校舎での男子、女子を廃止し、1908(明治41)年に男子師範学校をここに建設したものである。
昭和24年に同校が金沢大学教育学部になることになり、ここは、泉中学校、弥生小学校として使用されたという。
さらに歩いていくと「弥生さくら公園」がある。ちょど桜が見ごろできれいに咲いていた。ここには、明治19年に測候所と営林署ができて、昭和32年に地方気象台に昇格し、1991(平成3)年まで置かれていた。そして「桜の開花宣言」が出される標本木がここにあった。今は気象台が金沢市西念の方に移っている。
この日は、その標本木の桜はすでに散っていたが、遅咲きの濃いピンクの八重桜が見事に咲いていた。
この「弥生さくら公園」の前は、今は「南大通り」という名称の大通りであるが、1938(昭和8)年にできた道路で、中心街から南のはずれにあるから「南端国道」と言われた。そのころに満州事変が起きたために突貫工事で完成させたという。
その通りのわきに「旧芦中町」の標柱があった。「藩政時代から町名「足半町といへは並びみじかく、尻切れたる町」と伝えられ、はじめは足中町とも書く。のちに芦中町と書いた」とあった。また、この近くに「旧桃畠町」があり、「泉野村の地で藩政期に桃の木が多く植えられたので桃畠と呼ばれたという。また、古くからこの地に桃畠があったからともいわれる。のち、民家が建ち、明治4年、町名になった」という。藩政期には、この辺は民家がほとんどなく、畑ばかりであったのだろう。