本多家は加賀藩八家のうちの最大の重臣で、なんと5万石もあったということで、広大な上屋敷、中屋敷、下屋敷があった。上屋敷は、今の歴史博物館から県立美術館の敷地を含むところで、多くの部屋があった。
以前からある「美術の小径」は、中屋敷や下屋敷の人が上屋敷(政務を行う場所や当主の住まい)に行くときに使っていた通勤路だというが、今回は、上屋敷からの裏門で、当主や奥方などが使ったという「歴史の路」が再現されていた。つづら折りになった階段である。本来は、下の方は現在ある「旧中村邸」の方につながっていたが、途中から逸れて「美術の小径」につないでいる。
この「歴史の小径」の整備にあたって発掘がなされ、門跡、堀跡、石段や石垣が多く見つかったことが立て看板に記されていた。見つかった石階段を保存して、それを新しい階段に使ったり石垣なども補修したり作ったりしたという。
下図は発掘調査、整備前の写真(歴史の小路のパンフレットより)で、これらは藩政期に本多家上屋敷を知ることができる貴重な遺構で、金沢城下における武家屋敷の外構え遺構の代表的なものだという。
石垣は、角部が金沢城と同じように算木積みがなされ、戸室石などの使われたいたという。従来のものは埋め戻され、新しく石垣が造られていた。
この小径には門を管理する「不審番所」という小屋があったという絵図があった。
またその脇に「高峰譲吉ゆかりのニューヨークから戻ったという百年記念桜」が植えられていた。
そして少し歩くと、本多家の分家である「本多内記の長屋門」があった。「本多内記」は今の歌劇座の所に屋敷があった3,000石、直臣の武士である。別の場所にあった長屋門を今回ここに移築したという。
門の横に見張り用の「武者窓」が付いていて、中央の大戸が開いていて右手に潜り戸が設けられている。ただ、3000石の重臣の長屋門としては小さすぎるのではと長谷川先生が言っていた。確かに長町武家屋敷に残っている400~500石の平士クラスの長屋門と比較するとそう思う。