ここの住職にいろいろと話を聞いた。ここは、1610(慶長15)年僧子善が石川郡窪村で創建した真宗大谷派の寺院で、1732(享保17)年に現在地に移転した。寺町寺院群の一番端にあり、最後に移転した寺院だという。鎌倉時代の作である聖徳太子2歳の木造仏を安置されている。この木造仏は毎年1月と2月の御開帳の時に見ることができるという。
立派な古い門と本堂が建っていた。以前はこじんまりとした寺であったが、現在の建物は大正時代に再建されたという。そして瓦屋根は平成11年に改修した立派な屋根である。本堂の両側の柱の上の方には、寺院でよくみられる中国の想像上の動物である獏の木鼻と思われる彫刻がなされていた。境内の左側にお墓が建ち並んでいる。
側面からは入母屋造りの瓦屋根で、立派な鬼瓦や懸魚(ここは蕪懸魚)などが見られた。この懸魚は、建物の火災から守るためのおまじないで、寺院によく見られる。
また、この旧鶴来街道に面して、「金沢町屋」の銘板が張られていて、この地域ではひときわ目立つレトロな建物があった。二つの切妻屋根に、格子戸に格子窓、そして2層になった庇の間に白漆喰壁がされ、うろこ状の文様が入った瓦が張られていた。
ここに住まわれている叔母さんから話を聞くことができた。その叔母さんの親から聞いた話によると、100年位前に建てられたものではという。その親は、十間町で米の問屋商を営んでいたらしく、この建物は、さらにその親のための隠居所として使っていたという。
玄関の中の隣の部屋を見せてもらったが、囲炉裏の跡があって、2本の「自在鈎」が吊るされていて、天井が高く天窓も付いていた。部屋の中にあったピアノもたいへん古そうだったが、まだピアノが少ない時代の貴重な骨董品ではと思った。
この家の隣には、さらに古そうな門があった。門は扉が木で造られ、上部には花鳥の繊細な彫刻がなされていた。またその門の前には柵が置かれ、人が近づけられないようになっていた。叔母さんの話によると、(粟ヶ崎の木谷家?)から購入あるいは譲り受けたものだという。その後、東山の来教寺に移そうとしたが入らなく、やもなくここに置かれているという。また、花鳥の彫刻は「大野弁吉」の作であると父親から聞いていたので、金沢工大の先生が何度も足を運んで調べに来たが、名前は見つからなかったという。
続いて、「南大通り」方向に歩くと、大きな敷地に金沢大学の「北溟寮」、「金大職員宿舎」の建物がある。「北溟寮」の建物は、ついこの間50年近くの歴史の幕を閉じ閉鎖された。「バンカラ」、「寮歌」や「寮での生活」など、ここで大学生活を送った人にとっては忘れられない「青春の象徴」だった場所であろう。
「北溟寮」の隣には「金大職員宿舎」があったが、ここも役目を終えて今はひっそりしている。