今回は、「こまちなみ保存地区」となっている天神町界隈を歩いた。まず小立野から鈴見橋方向にある通りの右手にある「金沢美術工芸大学」に行った。ここは、石川県立工業高校とともに「工芸王国石川」の優秀な人材育成に欠くことができないものとなっている。
校舎の前には、金沢美術工芸大学の名前が描かれたレンガ造りの塀があった。この土地が、以前は金沢刑務所であり、その建物がレンガ造りであったと聞いていたので、その時のものかと思ったが、ここの職員に聞いたら、「歴史歴史学物館」の建物のものだと言っていた。
ここは、1946(昭和21)年にできた金沢美術専門学校を母体として1955年に大学として設置されたものだという。美術専門学校設立計画は、1945年に全国に先駆けて戦後初の美術展覧会(第1回現代美術展)が金沢で開かれたことからだという。
当初は、本多町のレンガ造りの「陸軍兵器庫」跡の建物を使っていたが、1972(昭和47)年に、現在の地に移転した。さらに今後は、金沢大学の工学部跡地に移転する予定である。
できてから70年近くになるが、輪島塗や九谷焼、金箔、加賀友禅など伝統工芸分野で、多くの伝統工芸作家が輩出されていて、人間国宝となっている作家もいる。
校庭には美術の学校らしく、水面に石造のオブジェが置かれていた。
校舎の中に入ると、石膏で作られた像などがいくつか飾られていた。
斬新なデザインの「ソーラーカー」も置かれていた。
金属の造形物も展示されていた。金属の造形物の第一人者であり、文化勲章保持者の「蓮田修吾郎は、ここの卒業生ではないが、金沢のあちこちに作品が見られる。
美大の校舎の中には、この学校の設立に尽力し、先生でもあった九谷焼の第一人者である「北出塔次郎」の作品や加賀藩の御細工師である水野源六などの資料も保管されている。
校舎から出て左に曲がるところに美大のテニスコートがあるが、数年前にテニス大会などに出るために何度か来たことがある場所で懐かしい。
その先に行くと、崖に沿って曲がりくねっている長い坂の「天神坂」に出る。ここは、小立野、鈴見道路ができて以来、私は初めて通ることになる。
実は学生時代に、この近くに下宿していたクラスメートがいて、そこでよく徹夜マージャンをやったので、よく来たところである。何しろ50年くらい前だから、その頃とは随分様子が変わっていた。
道路の片側は石垣が積まれていたが、当時からもあったものだろう。
坂の下の方は、細いまっすぐな坂となっている。
ここにあった標柱には「椿原神社の旧社名、田井天神の横にあるのでこの名で呼ばれている。昔、坂は三つに分かれていた」と描かれていた。