2025年6月17日火曜日

末森城跡(1)

今回は、加賀百万石の礎を築くきっかけとなった「末森合戦」の場所となった「末森城跡」に行った。加越能三国の国境付近で、現在の宝達志水町のほぼ中央にある末森山は標高140mくらい(卯辰山とほぼ同じ標高)の低い山である山城跡である。



















この付近に来たが、どこから「末森城跡」に上がるのか、なかなか見つからなくて畑をやっていた人から聞いて、ようやく「案内板」が見つかった。近所の人からは「その道は最近人が通らなく、クマが出るかもしれない」と言われてしまった。



















案内板に描いてあるどおりにに向かいの道を通り、すぐに下に国道が走る橋を渡ると「末森城跡」の看板が掲げられていた。


















橋を渡ると「末森山古戦場」の石碑が建っていた。これは平成14年のNHk大河ドラマ「利家とまつ」の放映を機に加賀百万石の礎を築くことのなったこの合戦の意義を世に知らせるために建てたことが刻まれていた。


















少し歩くと「末森城跡鳥瞰図」が描かれた説明板があった。山の上には「本丸」「二の丸」「若宮丸」などの戦闘にに備えた施設、その周辺には「馬掛場」「若宮」「武家屋敷」など普段生活する施設が置かれていた。末森城の周辺には「末守町」「加治屋町」「表町」など城下町を連想できる地名が描かれている。その横にクマを捕獲するための大きな檻が置かれていた。

さらに奥に行くと道の両側は鬱蒼と木々が生えていた。


















周りを見渡すとと奥があまり見えないところになってきて、クマが出るかもしれないと驚かせられたので約10分くらい歩いたところで、不安になり引き返すことにした。残念ながら「本丸」の場所まで行けなかった。


















ここの歴史は、15,6世紀あたりから活動の後があるが、文献では1577(天正5)年8月の「上杉謙信」書状に「末守」が確認できるのが最初だという。その後、織田信長に仕えた土肥親真が羽咋郡の行政の中心として、城下町も整備された。親真の死後、前田家の城となり加越能国境の要衝に位置する軍事拠点であり、戦国末期において羽咋郡域の中心地として機能していた。
天正11年の賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破り、天下人を目指す羽柴秀吉に織田信雄と徳川家康が対抗したのが天正12年3月に始まる小牧・長久手の戦いである。この戦いで前田利家は羽柴方に、佐々成政は織田・徳川方について戦った。同年9月に佐々成政は、前田利家の領国である加賀・能登の分断を図るため。末森城を急襲する。

成政は、越中から宝達山系を超えて末森城に近い坪井山に本陣を張って攻撃した。末森城の城主は奥村家福である。奥村家は尾張の小豪族であった前田家に代々使える家柄であった。元々末森城は能登守護である畠山氏の南を守る支城で、上杉謙信の攻撃にあい、陥落後の末守城には謙信が越中から伴った土肥氏が入った。その後、上杉勢力が能登から撤退すると、織田信長に臣従し、羽咋郡の支配を認められた。その甥の土肥氏と奥村氏、千秋氏と合わせて1500人の兵で守っていたが、成政は8000人の兵であった。土肥氏が出撃して戦死したため、家福は金沢の利家に急を告げた。「人は一代、名は末代。大切な家臣を見殺しにしては、たとえ天下をとっても、人々の誹りを受ける」と利家は家臣たちの慎重論を押し切り、弟の秀次が守る津幡城で松任の利勝と合流して、3500人の兵で夜中に北上し、途中佐々方の待ち伏せがあるという知らせに、街道を避けて浜伝いに進み、11日の朝今浜に着いた。利家の救援に力を得た籠城兵も反撃し、佐々軍は大混乱となり後退した。

















将奥村家福(永福)らの徹底抗戦と利家の素早い救援により、成政は撤退することになった。
この戦いの功績で、後に利家は秀吉政権内での地位を向上させ、前田氏が加賀・能登・越中三か国を領有する道が開かれた。「末森合戦」が加賀百万石の礎を築くきっかけとなった合戦と言われている。