2022年1月12日水曜日

鼠多門(1)

 今回は、1年半くらい前に復元された「鼠多門」について、オープン3か月後に描いた「下書き」が残っていたので、時期が遅れたがここで紹介する。

コロナ禍の影響で金沢の観光客が少なくなっていたが、9月末の4連休以降少しづつ人が戻ってきているようだ。鼠多門と橋がオープンしてから3か月ほどになるが、今でもまだ建ってまもないということで、県外の人や地元の人が見に来ることが多い。(2020年10月)

歴史上では、1630年代に建てられたというがはっきりしない。金沢城のほとんどの建物が焼失した宝暦の大火(1759年)ではここだけ焼けていなく約240年間残っていた。橋は明治10年に老朽化のために撤去され、櫓は明治17年に焼失した。


金谷出丸は、藩主の子供たちや正室、側室などが病気の場合の静養の場所、あるいは元藩主や藩主の母の隠居所として使われた。二の丸御殿は人が多くゆっくりできないが、ここは静かで落ち着いて過ごせるので、この橋は、藩主が二の丸御殿から金谷出丸に行くときに渡った橋だから、藩主が最も利用した橋だったという。5代綱紀が病気の娘の「豊姫」を何度も見舞いに金谷出丸に行ったという古文書ものこっているらしい。












また、藩主が兼六園や鷹狩などに行く時も、この橋を渡り金谷御門から行ったという(?)。金谷御門は今の旧四高記念公園側にあった。
















鼠多門の謎であるなまこ塀の漆喰の色が「ねずみ色」ということで、いろいろ議論が伯仲している。鼠が多かったという説や勝手口だからという説、他に宝暦の大火以前はすべての建物がねずみ色をしていたという説や4代藩主光高が権現堂(今の尾崎神社)を建てたときにけばけばしい朱色など極彩色の建物を建てたので、3代藩主利常は家康が嫌いだったので、あえて武骨な色の門にしたという説など、いろいろ空想するのも面白い。実際に見た人は、今は誰もはいないので何でもありだ。










金沢城の建物の再現は約10年おきで、最初に五十間長屋そして河北門そしてこの鼠多門である。次は仕上げだという二の丸御殿を建てる予定していて、まず政務をつかさどったという「表向き」からというが、まだわからない部分も多く、予算取りも大変なことだろうから、いつから始まるかわからない状況である。今回の鼠多門の完成が、谷本県政の集大成であろう。

それにしてもこの現在の鼠多門は、きれいすぎて不自然な感じがある。三十年もすれば威厳のある門に見えるようになるであろう。「玉泉院丸庭園」もできたすぐはきれいすぎて不自然な感じがしたが、五年経つと少し昔の大名庭園らしく見えてくるようになってきた。金沢城の三御門は。升形になっており、一ノ門と二の門がある格式高い門であるが、ここは少し雰囲気が違う。













両側の石垣に門が入り込んでおり、その上に渡り櫓としては珍しく2階建てになっている。建物の左右は非対称で左側が長くなっている。また、金沢城の特徴となっている黒い隅柱は、ここにはない。














石垣は、建物の前面に沿った石垣と、その前に小さな石でなだらかな傾斜がある石垣と2段になって、他の城内の石垣に比べてとてもきれいな石垣とはいえない。






屋根は平瓦と丸瓦が交互に仰伏させて葺いていく「本瓦葺」で、金沢城のほかの建物と同様に「鉛瓦」すなわち中は木で薄い鉛を貼ったものである。丸瓦の先端に「梅鉢紋」が鋳造で形どられている。
塀も金沢城特有の「なまこ壁」で、平瓦のすきまに漆喰をかまぼこ状に塗ったものである。ここで違うのはほかの建物のような白漆喰ではなく、白に炭を混ぜた薄黒いものである。この炭を混ぜた黒漆喰は、粘り気があり、かまぼこ状に塗るのに非常に苦労したと聞いている。