2020年9月25日金曜日

大聖寺巡り(3)旧大聖寺城跡②

 大聖寺巡り(2)旧大聖寺城跡①の続きで、さらに歩いていくと本丸に着き、隅の方に四阿があった。頂いた資料から以前はこの辺りに小さな池があったようだ。




















本丸を囲む土塁は大規模なもので周りにずっとある。



















本丸に残る櫓台跡は錦城山山頂で、標高65mの平らな場所である。



















櫓台跡の崖が崩れるのを防ぐためか(?)土嚢が積まれていた。
























本丸を超えて、さらにあるいていくと「馬洗い池」の案内板があった。ここに堰き止め周囲と掘り窪めて造られた人工池で、山頂近くにありながら、かっては夏でも水が枯れることはなかったという。籠城に備えた飲料水を確保するために造られたという。



















続いて、「二の丸跡」に行った。ここは、城内最大の曲輪で台所屋敷ともいわれた。南側以外をほぼ方形に区画し手土塁を設け、斜面下に空堀を巡らせている。本丸側と戸次丸側に虎口がある。



















二の丸の周りにも土塁が巡らされている。



















熱心に講師の話に耳を傾ける参加者たち。



















土塁の外側には水のない「空堀」があり、曲輪を防御している。山城の場合は幅が狭くても深く掘ることにより防御性が高めているという。



















こちらは「堀切」で峰続きの尾根と遮断するために掘られたものである。
























「番所屋敷跡」から「下馬屋敷跡」を下りていく。



















「東の丸跡」付近には、「深田久弥日本百名山50周年記念」の碑がある。



















「東の丸跡」からは眺望が開けていて、東方の白山連邦のきれいに見える。



















帰りに、城の登り口付近に「贋金造り」の洞窟がある。明治維新の際に新政府から越後戦争に使用する弾薬を求められた大聖寺藩がその軍資金を調達するために贋金造りをしていたということである。銀製品を溶かして二歩金を作って山代温泉の湯に浸して流通させたということである。その後にこれが発覚して責任者の市橋波江に切腹をさせ、さらにその息子には倍の禄を以って功に報いたということである。