2019年10月21日月曜日

北国下街道下口(4)

北国下街道下口(3)の続きで、「やちや酒造」の店の向かいの小路に入ると、民家の玄関の両側に、内部が土で板で覆われ、瓦屋根のついた塀があったが、かなり古いものであろう。ちょうどこの家の人が出てきたので聞いたら、「やちや酒造」に能登の杜氏の人達が来た時の宿泊場であったと言っていた。




















「やちや酒造」からさらに北国街道を進むと、大通りに出るが、ここに「大樋町」の標柱があった。「昔大きな樋(とい)で水を引いていたことから大樋の名がついたという。この地はもと大樋村の村地であったが、藩政後期に町奉行支配地となり町地となった。明治の初め、この名が町名になった。」とあった。
























大通りの向かい側の角には、以前は店をやっていたと思われる町屋だが、きれいに改修されていた。




















珍しく3階建ての古そうな建物とその隣の家も以前は店をやったいた町屋と思われる。旧街道の商店街だったことが偲ばれる。
向かい側には現在もやっていて、白い暖簾がかかっている「森下米穀店」は、新しく建物は建て直しているが、旧街道時代からやっている店だと主人が言っていた。



















さらに進むと、現在も店をやっている古くて大きな店構えの「朝賀家具店」あった。広いショールームには家具がたくさん並べられているのだろう。今は郊外にある大きな店に集中していて、町中の小さな家具店は、殆どなくなったがここはまだ頑張っている。



















さらに歩いていくと大通りの「城北通り」に出る。この裏道となった細い「旧北国街道」はここで終わりで、その出口にも標柱が建てられていた。



















昭和40年頃までは、ここに「東金沢駅」まで市電が走っていた。「鳴和」から「東金沢駅」までの線路は「枕木」が露出していてた。廻りも町中と違って、かなり郊外の雰囲気があった。私が中学生時代に自転車でここまで来た時の印象が今でも鮮明に覚えている。



















「旧北国街道」の裏道には、さらに道が細いが両側には古い家が建ち並んでいる。旧街道は商店街で、そしてここ辺りは住居地であったのか?
























旧北国街道の山側の方の道を少し歩くと、石垣などの上の高台に屋根の下のしっくい壁に梁が張られた「アズマダチ」の立派な家があった。この辺は武士がいなかったから、昔は農業をやっていたのか?