2019年8月16日金曜日

卯辰山寺院群(9)心蓮社

卯辰山寺院群(8)の続きで、その後「心蓮社」に行った。
「心蓮社」の創建は1612(慶長17)年に京都大本山清浄華院法王 休與(能登の長連龍の弟)が塩屋町に建てたのが始まりという。1637(寛永14)年に3代藩主前田利常から現在地に寺を拝領して移った。



















山門前には、右手に巡錫、左手に宝珠を持ち、連座に立つお地蔵さんが置かれている。




















文政年間(1818~1829)に金沢辰巳大火で重要文化財の「阿弥陀三尊迎図」を残し、一切を焼失したという。本堂、山門、築地塀は大火後の文政年間に建てられた。大正年間に本堂が改築された。木造平屋建て、切妻、桟瓦葺き、正面唐派風屋根付き、外壁は白漆喰仕上げの建物である。



















唐破風の屋根の下に立派な龍の彫刻がなされていた。



















「平和記念塔」は平成元年に建てられた方形屋根、銅板葺きで、正面に「平和」の扁額が掲げられている。
























その横の塀の裏に「川口久雄」氏の記念碑があったが、「川口久雄」氏金沢大学法文学部の教授を務めた文学博士で、国文学や日本漢文学などで傑作を残した人物である。彼が描いた文の一説も刻まれていた。



















梵鐘は川口先生が中心になって再鋳したものであるが、鐘楼は古く周りには素晴らしい龍の彫刻がされていた。鐘楼の下に穴が開いていて壺のようなものが埋め込まれていたが、音を響かせるものか?
























本堂の裏手に墓地があり、松尾芭蕉が「奥の細道」で金沢に来た時に、一番芭蕉に付き合った「立花北枝」の墓がある。蕉門十哲のひとりに数えられ加賀蕉門の代表的な人である。墓の斜め手前に「しぐれねば又松風の只おかず」の句碑がある。



















その近くに蕉風の「高桑蘭更」の墓もあるということだったが、どれか分からなかった。墓地の上のほうには「寺島蔵人」の墓もあるという。

ここの庭園は、市の指定庭園になっており、築山池泉式「めでた造り」の庭園で、小堀遠州流といわれている。



















上下二段式庭園は、建物の向かいの崖地に、大小の三尊仏などの石組みや植栽がなされ、下の方に心字池があり、雪見灯篭が配置されている。墓地と一体となった庭には、椎、もみじなど自然林が生い茂り、山の大木の根から湧き出る水が落ちて池を作っている。