2018年11月19日月曜日

玉川町、英町、六枚町

前回の続きで、「玉川町通り商店街」の一つ武蔵寄りに広い通りがある。「玉川図書館」から「白銀町」までの通りは藩政期にはなく、明治か大正時代にできたのでろうか?



















下の写真は1921(大正10)年にこの通りに建てられた「玉川警察署」で、当時は金沢市は「広坂警察署」とふたつに分かれていた(現在は金沢東署、中署)。ここには、消防署も併設されていて、天辺の尖の下に物見台があった。当時はそんなに高い建物がなかったので、遠くまで見えただろう。
ところで、私の小学生だったか中学生だったか忘れたが、学校からここへ社会見学に来た。いざ火災があったら建物の2階にいる消防士が、丸い柱をすばやく滑り降りて現場へ向かったという演技だけを鮮明に覚えている。
中学生時代に同級生の父がここの署長をやっており、この建物の後ろに家に住んでいて、何度かその友達の所へ遊びに来たのを覚えている。



















「玉川警察署」の跡地に、郵政が管轄していた「メルパルク金沢」ができ、結婚式場やいろいろな催し物などが開かれていた。30年ほど前に私の小学校が閉校されるということで同窓会がここであったのを覚えている。現在は、ホテルが建っている。


白銀交差点で左に曲がると、「旧英町」に出る。



















標柱にはもと安江木町の一部で、町内に英田広済寺があったことから、文政4年、町名改めのとき「英」の一字を用いて町名とした。」とあった。その前の藩政時代は、材木商人が多く住んでいて、はじめ「安江木町」と呼ばれ、金石往還に通づる道で、宮腰(金石)から陸揚げされた材木は、古道の木揚場からここに運ばれきた。しかし金石往還があったことから他の商売の店もでき、次第に商店街ができるようになったという。
























「英田広済寺」は浄土真宗大谷派の寺院で、一向一揆時代には有力な寺院であったという。



















ここの「英商店街」の老舗の薬屋の「山崎太可堂」がある。



















さらに歩いていくと「うめさ食品」は明治10年創業というからもう140年以上になる老舗の味噌屋がある。大きな店構えで、入り口の屋根には「醤油」の文字は入った木製の壺型の看板がある。店の前には赤い暖簾に「うねさみそ」と描かれている。ここには、「豆腐の味噌漬け」や「ゴマ味噌」などの商品がある。



















ショーウィンドーには、明治から続いている店の古い建物を描いた絵図と歴史研究家の「屋敷道明」さんが描いた藩政期の「六枚町」の説明書きが額にはいって展示されていた。



















六枚交差点の角には「六枚町」の標柱が建っている。「藩政前期からある町人町で、この町の宅地税である地子銀が年間6枚であったところから、この名がついたと伝えられている」とあった。
























さらに交差点の左に曲がり少し歩くと、小路に沿って「鞍月用水」が見える。そのすぐのところに築140年という町屋を改造した、段々になった派手な赤い建物がある。ここは今はやりの「シェアハウス ポンギー」という。確か金沢市に初めてできたシェアハウスで、最近では市内にいくつかあるはずだ。外国人の観光客が多くなり、安く泊まりたいという人も多くいる。しかし今話題の宿泊税などの問題もあり、いろいろ話を聞きたいと思ったが、この日は休みで残念でした。



















ここからさらに「鞍月用水」沿いに歩いた。