2018年11月6日火曜日

玉川町通り商店街

今回は、「玉川町通り商店街」を歩いた。ここは玉川図書館からJR金沢駅方向へ400mまっすぐに延びた石畳通りで、昭和の初期までは「横安江町商店街」に次ぐ賑わいを見せていたらしい。



















昭和8年ころの「玉川町通り商店街」



















今日は、平日の午後でもあり、開いている店は限られていた。そんな中で2,3の店を紹介する。「玉川町薬局」は、昔のたたずまいで、近所の人のかかりつけ薬局として、健康をサポートしているという。



















「桜井金物店」は、創業50年で店内には、おろし金やジョーロ、雪かきスコップなどの長持ちする家庭用品がいっぱいある。



















「スナック喫茶リオ」は、40年前から営業している老舗喫茶店で、カウンター越しのママさんの笑顔に癒される店である。実は3年ほど前の飲み会の2次会で、私は知人に連れられてこの店に入ったことがある。その時は常連のシニアのカラオケ客でいっぱいだった。



















商店街の中に「福念寺」という真宗大谷派のお寺がある。かって青木芳斉(加賀藩足軽頭)の居住があったところで、芳斉町の町名の由来となっているところである。

































下図は幕末のころの、このあたりの古地図であるが、この通りの片側には「鞍月用水」の分流の用水が流れていた。このあたりには、兵学や砲術学を学んだ人の屋敷が多かったところである。



















「有沢永貞」は叔父の「関屋政春」から武田流軍学を学び、山鹿素行などに従い、有沢流兵学を確立した。



















その子の「武貞」は江戸の町図と金沢城下の地図を比較考案、「甲陽軍艦」に照合し、江戸と金沢は規模が違うが同じ兵学的に作られていることを最初に指摘した人である。



















青山知次(将監)は、7150石の家老職で「斎藤三九郎」を陪臣に迎え、大砲の研究をし、試射に成功し加賀藩の開発のリードしていた。「斎藤三九郎」は長崎の町奉行の「高島秋帆」が長崎でオランダからモチール砲を輸入し、幕府の命により洋式練兵と大砲発射訓練の実施に参加している。
長家の陪臣「河野久太郎」は、「遠藤高のり」らの「金沢町測量」や「時規物語」に加わった一方、大砲を松下健三と鋳造して試射に成功した。屋敷は「有沢家」の一軒おいてとなりに屋敷があった。