2018年11月23日金曜日

高厳寺

前回の続きで、「鞍月用水」沿いにさらに歩いていくと「高厳寺」というお寺がある。ここは、1613(慶長18)年に臨済宗妙心寺派の密厳宗顕が開山、開基は生駒内膳直方(豊臣秀次の旧臣)で、英次の菩提を弔うために、利常公より現在の土地を拝領し建立したものである。



















門の前の横の地蔵堂には2体の石造地蔵尊立像があり、右像は白く、高さは130cmで合掌し数珠をかけている。左像は浅黒く、高さ120cmで、左手に宝珠、右手に錫杖を持っている。子供の成長と家内安全を祈願している。
























一柳監物直興が長らく滞在していて、境内の右手に遺愛したといわれる紅梅があるが、現在のものはそのひこばえが成長したものである。監物は、伊予西条25000石の城主だったが、職務怠慢などを理由に改易され、幕府より領地を召し上げられ、前田綱紀へ預けられた。現在の金沢駅前付近に一柳監物の屋敷(預かり所)があった。



















監物が亡くなった時に、ここで葬儀が行われ、境内にこの寺で一番大きい遺髪塔があり、野田山に立派な墓がある。
























三代藩主利常の八女「辰姫」が生駒家に降嫁されたが5歳で亡くなり、ここにその墓の前に、明治になってから鳥居が付けられた。ここだけ前田家の地面であるために成巽閣が毎年お参りに来て管理している。



















高厳寺の歴代の住職さんお墓があった。4代目高厳寺住職普門和尚は、博学多才、能筆、悟道に達した人物であったから、監物とは親しくしていた「地蔵菩薩応験新記」お著述、また室鳩巣の文集には普門の詩の収録があるという。



















ここのお墓には、五輪塔がずらりと並んでいた。



















3代藩主利常は、金森宗和(飛騨の大名)の嫡子七之助を1500石で召し抱え、重臣たちの茶道を伝え、加賀藩宗和流の源泉となった。金森家の菩提寺として、代々の茶筅塚がある。



















生駒万子は1000石「普請奉行」の加賀藩士で、芭蕉に深く傾倒した。高厳寺はその菩提寺で、屋敷は寺の南側にあったという。句碑「枯れ竹や雪にもよらず二、三本」と「蓮の実の中はひそかな葉巻かな」が境内にある。



















生駒直方は高厳寺を建立したが、4500石の火消し役の加賀藩士で、直方の室は3代藩主利常の側室であった五条局で、1651(慶安4)年に婚姻した。父直義の弟の八郎右衛門が分家し、その子が生駒万子である。



















その他に、現在「福念寺」付近に屋敷があり、芳斉町の名前の由来となった「青木芳斉(新兵衛)」の墓もある。青木新兵衛は関ケ原の戦いの折、上杉軍にいた新兵衛は伊達政宗を追いやった槍の名人で、その後3代利常に5000石で迎えられた。