2017年6月29日木曜日

能登守護畠山氏と長谷川等伯(3)七尾食彩市場 七尾城跡①

能登守護畠山氏と長谷川等伯(2)の続きで、その後に昼食のために「七尾食祭市場」に行った。ここも以前から七尾付近に来たときによく寄っているので、何回目かになる。



















1階の入り口付近にある鮮魚店は、漁港が近いので相変わらず新鮮な魚が並んでいて、たくさん買って持ち帰りたいと思うが我慢するしかない。前々から、いつかはここある「浜焼きコーナー」で、新鮮な魚介類を焼きながら飲んで、食べたいと思っていたが、まだ体験していない。



















2階にある和倉の有名な宿の「加賀屋」の店で、ちょっとご馳走な「お造りと天婦羅御膳」をおいしく頂いた



















お腹がいっぱいになったところで、その後、「七尾城跡」に行った。
ここは、足利一門の有力家臣であった畠山基国が能登国守護職に命ぜられたのは、今から約600年前の室町時代の初頭で、能登のほかに河内、越中、紀伊の三か国の守護職も兼務しており、室町幕府の管領にも就いた大物であった。
能登畠山は、基国の次男満慶(みつのり)が1408(応永15)年に畠山氏が治めていた四分国のうちの能登一国を割いたことがはじまりである。そして満慶以後義隆まで11代、七尾城が落城する1577(天正5)年まで169年間にわたり能登を治め、京文化を礎としながら地域に根差した独自の能登の畠山文化を繰り広げたという。
下図は、7代義総画像で七尾市蔵



「七尾城跡」パンフレットより














七尾城は、最も大規模な戦国期拠点城郭であるとともに戦国期と織豊期のもっともすぐれた山城構造の全貌を知ることができる城郭だという。七尾城は単なる立て篭もりの砦でなく、日常的な政治活動や生活をしえた拠点城郭であり、多数の屋敷地が終結した壮大な城郭構造は、まさに「山上都市」として機能したこと示すという。







「七尾城跡」パンフレットより










本丸駐車場でバスを降りて歩いた。ここからの参道は柔らかく歩きやすいウッドチップが敷かれていた。



















途中には城郭防御のための「堀切」の跡があった。このような堀、土塁、などの「惣構え」は、この山のあちこちに見られるという。



















「桜馬場」付近には、真直ぐ伸びた杉や段状になった石垣などが見られた。



















「調度丸」で見られた石垣など、多くの石垣が残っている。これらは加工することなく積み上げられた「野面積み」で築かれ、石は山麓にかけての谷筋の沢から主に運ばれたという。



















重臣の「遊佐屋敷」があったとされる場所があり、他に「温井屋敷」、「長屋敷」などもあることから生活や政治の基盤が山城内にあったことがうかがえるという。



















その上を上がると「本丸」に着く。この辺は急な階段で結構しんどい。