本多町界隈探訪(1)の続きで、本多家の庭園である「松風閣」のほうに行った。ここの庭園は、江戸の初期に作庭されたもので、兼六園より古い。ここの池は「鈴木大拙館」へ行く途中などに何度か見たことがある。
その畔に屋敷があるが、ここは明治19年に元の上屋敷から移築された「旧広阪御広式御対面所」で、1907(明治40年)に 現在地に再移築され「松風閣」と改称されたという。
通常は入れないが、今回は特別に入ることができた。加賀藩主12代斉広の七女である寿々姫が本多家9代政和に嫁いでいるが、その寿々姫のための屋敷である。
御対面の部屋である書院造の部屋
「成巽閣」の「謁見の間」と同じで、「武田友月」作の花鳥の精巧な欄間がある。
その隣の部屋にあった板戸に素晴らしい絵が描かれていた。
実は、この日の夕方に民放のテレビ放送のニュースに、このイベントのことが放映された。一瞬だが私だけがアップで出てきたことを、何人かの知り合いから連絡を受けた。後で思えばこの絵を見入っているときに、何かしらカメラの殺気を感じていたので、この時ではと思っている。
この後、庭園に入った。この庭園は、古沼と自然林を生かして作庭された庭園で、池は兼六園の池と同じ「霞が池」と呼ばれるが、こちらの方がずっと古くからある池だ。その奥は小立野台地の下に多くの大木や竹林が生い茂り、静けさが漂っている。
所々に沼など湿地帯も多くある。
本多家の2代政長は、茶人の金森宗和と親交があり、宗和の子方氏が1625(寛永2)年に加賀藩に仕えたことから、その指導を受けて作庭したと推定されている。
十字が刻まれた石があったが、高山右近が関係した「隠れキリシタン」のものかは疑問があるという。