2017年6月24日土曜日

能登守護畠山氏と長谷川等伯(2)七尾美術館 長谷川等伯

能登守護畠山氏と長谷川等伯(1)の続きで、その後、七尾美術館に行った。ここは、十数年前に親戚の人らと七尾・能登島に一泊のドライブをしたときに寄ったとき以来である。



















ここでは、七尾市出身の桃山時代の日本を代表する絵師である「長谷川等伯展」を見た。この催しは毎年1回は特別展としてやるという。



















早速、ここの学芸員である北原洋子氏から「長谷川等伯」についての講義を受けた。
館内の「等伯」の絵などはカメラ禁止だったので、講義に使われたプロジェクタの画面から少し紹介する
前田家が入り金沢が加賀百万石になる前は能登の七尾が中心だったという。



















等伯は、この七尾で生まれ20歳のころには「信春」という名前で仏の絵を描く絵師になった。うまくなると七尾から京都へ絵を学びに行く身近な人がいたので、「京都でたくさんの絵を描いて、自分の力をためしたい」と思い、等伯も33歳の時に京都に修行に出た。そのころは狩野派の画家が大人気だったので、当初は狩野派の絵を勉強したが、「自分らしい絵を描きたい」ということで、別の道を進んだという。そういう時に、あの有名な茶人の「千利休」が応援してくれて、多くの弟子ができ、狩野派に負けない長谷川派ができたという。



















下図は「日蓮上人像」で。等伯が20~25歳位の作品で、養父「道浄子息」と描かれている。このころは養父の方が有名であったのか?羽咋市の「妙成寺」の所蔵品



















下図はよく見るお釈迦さまの「涅槃図」で、左端が等伯の描かれたもので一番鮮やかな色合いである(羽咋市 妙成寺蔵)。中央は養父の「道浄」筆のもので、右端は、それより以前に描かれたもので無文筆である(穴水町 来迎寺蔵)。「等伯」が参考にしたのではないかということである(七尾市 長壽寺蔵) 



















ここで私が初めて知って驚いたのは、等伯が京都の行った桃山時代の京都の堀川通や小川通付近に「法華上層町衆」があり、本法寺には本阿弥一門(刀剣御用)、五十嵐一門(蒔絵御用)や妙覚寺には後藤一門(彫金御用)、狩野(絵画御用)、楽一門(陶芸御用)などそうそうたるメンバーが集まって工芸に関する技術に取り組んでいたのが分かったことである。後の金沢の工芸の発展に大きく影響した人たちも集まっていたのか?

































続いて、等伯が描いた有名な絵図を紹介する。
「達磨図」は等伯40歳ころの作品で七尾市 龍門寺蔵で、座禅修行をしている鋭い目が印象的なお坊さんが描かれている。



















下図は、京都市 圓徳院の襖絵で、当初は白い模様だけで絵はなかったが、衆僧が止めるのも聞かずに、勝手に絵を描いたという。桐文様を雪景色にみたてて山や木、家などを描いたのでないかという。



















下図は、等伯が描いた日本水墨画の最高傑作の国宝「松林図屏風」とそっくりな複製画で誰が描いたかわかっていない墨を濃くしたり薄くしたりして松林を描いている。七尾で生まれた息子と遊んだ松林を描いているのか?。

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