2019年9月5日木曜日

辰巳用水巡り(兼六園~尾山神社)(3)

辰巳用水巡り(兼六園~尾山神社)(2)の続きで、その後、「ことじ灯篭」付近にある曲水の最後の所に「霞が池」への流れと水門と桝がある「大桝」と呼ばれる金沢城への流れの取り入れ口がある。
























この先、茶店「寄観亭」の横を通る石の下に2列の石棺が通っている。
























そして「石川門」前の、藩政期は土橋であった「石川橋」の中に入り「逆サイフォン」で「石川門」に上げている。












下図は子供読本「辰巳用水」の中の「逆サイフォン」を分かりやすくしたもので土手の中に木菅を通し、城側の上の方に上げたものである。


「逆サイフォン」の下の方はどうしても砂がたまりやすく、溜まると上へ上げられなくなるにで、定期的に大量の水を流し砂落しをやっていたという。そして「白鳥堀」方向に流していたという。場所は、今の「石川橋」をすぎたすぐ先の「カラタチの木」の手前当たりだったという。



















金沢城まで上げた水は、当初は三の丸までしか上がらなかった。今の五十間長屋前の内堀の水は、明治末期くらいまであったらしい。



















二の丸までは、2年後に「石引水門」から取り入れた水で上がるようになったという。二の丸御殿にあった「御居間廻り」の前にあった庭園の水などはそうであろう。



















続いて「玉泉院丸庭園」の池の水は、現在は「いもり堀」の水をポンプを使って導水しているが、藩政期はどこからの水をひっぱってきているのだろうか? 二の丸からかまたは「紅葉橋」方向からであろうか? 



















「色紙短冊積石垣」の上に方にある坪野石のV樋から滝が流れていたが、二に丸にあった庭園の水より高い位置にあるので、どこから導いたのかも疑問点であると先生が言っていた。
























次に「尾山神社」にある「饗遠爆」は、藩政期には今より水量が多く、大きな音が鳴っていたという。やはり「逆サイフォン」で持ってきたというが、取り入れ口は「玉泉院丸庭園」?「二の丸」?それとも「兼六園」からという話も聞いている。



















それから「尾山神社庭園」(神苑)の池に流れ込んでいる。これは、5代綱紀公の時代に作られたのが始まりで、江戸後期から明治初期にかけて現在の形に整えられた池泉回遊式の庭園で、島や池の形が雅楽の楽器を模した形になっている。ここにある円形に反った「図月橋」は、中国風で当時ブームのようだったと言われる。
1650年ごろから、黄へき宗の隠元の影響で中国風が盛んになり、小石川後楽園は水戸光圀が中国風を多く取り入れているという。