2019年1月2日水曜日

加賀橋立(4)北前船主の屋敷跡

加賀橋立(3)の続きで、その後、北前船主の屋敷跡を巡った。



北前船主の屋敷跡巡りマップ















まず「増田又右衛門邸」があったが、増田家は近江の出身で、初代から船に乗り三代又右衛門は1845(弘化2)年に大聖寺藩に金3000両を寄付し十村役になった。明治22年には持船は6隻を数え、橋立では久保、西出家に次ぐ大きな船主であった。



















久保彦兵衛と並ぶ大船主の西出家は、元越前朝倉氏の家老笹島伊賀の守の弟、次郎兵衛に発する。代々孫左衛門を襲名し、宝暦年間より大聖寺藩への献金や船献上をし、久保家と同様に藩に重用された。



















西出家の繁栄は、むしろ北前船が衰微する兆候を察し、明治22年に函館に支店を設け北洋漁業に転身したことであるという。前々回のブログで紹介したが西出家が「函館山」を買い取ったことや、小樽には北前船が建てた煉瓦造りの倉庫が数多く残ってることなどすごい財力があったことが分かる。





「北前船の遺産」より













北前船の活躍の跡は各地で見ることができる。北海道江差町厳島神社の鳥居に”天保9年戌亥3月吉日「加州橋立船頭中」”と残っている。






「北前船の遺産」より












久保彦兵衛は1845(弘化2)年に大聖寺藩の財務整理の元締め役を命ぜられ、進んで1万両を献上し、その後も3000両、廃藩置県に5000両とだし、北陸親議会や橋立船道会のリーダー的存在となった。久保彦兵衛の邸宅は、江戸時代に藩主の浜御殿と称せられ、たびたび訪れている。上段の間と下段の間に分かれた座敷は、金沢の長町の「野村家」に移築され公開されている。



















住居部分は加賀市大聖寺文化施設「蘇梁館」として利用されている。







「北前船の遺産」より











久保彦助邸は、初代の彦助は本家の次男で江戸末期に分家になり、4代彦助が大聖寺藩に金1000両を献上し、慶応元年に屋敷などを拝領し、十村格を仰せつけられている。建物は明治12年、ほとんど手を加えず、当時のままを残しているという。






「北前船の遺産」より












北前船主の西出家出身の西出朝風は口語短歌をひらき、大正3年「新短歌と新俳句」を創刊した。また、画家の竹久夢二と深い親交があったという。船主たちは子弟の教育に熱心で、多くの文化人を輩出したという。



















北前船はここの浜の少し沖で停泊し、伝馬船で荷物の揚げ降ろしをしたという。



















北前船の里資料館の近くに浄土真宗大谷派の福井別院橋立支院がある。赤瓦屋根の寺院であるが、庭に大きな鬼瓦が置いてある。案内板には、もとは吉崎での蓮如の布教に関係する因随寺があったが、橋立大火で焼失し、その後北前船主たちの努力で橋立支院が建てられたとあったが、この鬼瓦は因随寺のときのものか?