2018年7月17日火曜日

安土城跡(3)

安土城(2)の続きで、さらに上がると、ようやく天主台に着いた。石垣で囲まれた四角の中には礎石といわれる平たい大きな石が並べられていた。ここにあの雄大な城があったのかと思うと感慨深いものがある。



















ここは、完成してからわずか3年後の1582(天正10)年に焼失してしまって、長い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれていたが、調査の手が入ったのは1940(昭和15)年のことで、往時そのままの礎石が見事に表れたという。記録から地上6階、地下1階の当時としては傑出した高層の大建築物で、その高さは46mの壮大で絢爛豪華なものであったという。現在の部分は地下1階の場所で、実際にはこの2倍以上の広さはあったのではということである。
























安土山は標高199mで、天守台付近から見える東側の部分は、信長が作った楽市楽座(城下に集まる者への自由な商売許可)や家臣や将兵を住まわせ、用事があればすぐに呼び出せる体制の城下町があった。また北陸、東海、京を結ぶ要衝でもあり、行き交う人たちも多かった。



















かって安土山は琵琶湖に突き出た半島だったという。その後、周辺が埋め立てられ今は、少し離れたところに琵琶湖が見える。琵琶湖の向こう側には、この写真のさらに左側に比叡山も見えるはずだ。



















天守台を後にして、摠見寺本堂址に行った。ここからは、琵琶湖の入江だった「西の湖」が近くに見える。琵琶湖から「西の湖」まで船できて、ここから安土城まで物資を運んだといわれる。

































以前あった「摠見寺跡」付近には三重塔がある。現存する建造物で、焼失した本堂とともに信長が滋賀県下の大寺院から移築したもので、宗教勢力を支配下に入れた見せしめに並べたとされている。(今回は改修中でカバーが掛かって見れなかった)























「名城へ行く 安土城」より














ここで、「安土城天守」がどんなものであったかを見る。下図は昭和22年に描かれたという絵図であるが、何とすばらしい城であったかがうかがえる。5階は朱色の八角形で最上階は金色の四角形である。内部は狩野永徳などが描いたという華麗な障壁画が飾られ、当時の建築技術の限りを尽くしたものである。信長が起居した場所であり、客人を迎える場でもあった。その権威を城内にも示す必要があったという。






「名城へ行く 安土城」より












「安土城天主信長の館」に展示されている地上5階と6階部分の実物大の復元された「安土城天主」は、スペイン・セビリア万博に出品された後、ここに展示されたという。
この復元に使った金沢金箔10万枚と上塗り用の漆150㎏が使われたという。この復元天主はカメラ禁止だった。






「名城へ行く 安土城」より

















1582年「本能寺の変」後、半年足らずのち築城以来3年で謎の火災で安土城は消失し、長年の間その外観、構造は解明されず「幻の名城」と呼ばれてきたが、近年になり加賀藩お抱え大工に伝わる「天主指図」が発見され、元愛知産業大学学長 内藤昌氏により「信長記」、「信長公記」などの史料との照合によや安土城・実測調査の結果「安土城」であることが判明したという。
「安土城考古博物館」には「信長公記」に基づいた安土城の中の構造が分かる1/20のサイズのものがあり、中央は4階(地下1階含む)まで「吹き抜けの空間」になっており、足利義満の金閣寺に類似しているという。