2014年9月15日月曜日

幸町、菊川界隈(1)

以前に骨董通りの新竪町を散歩したが、今回は本多通りを横断しその向こうの幸町、菊川界隈を歩いた。
藩政期以前の石浦七ヶ村といわれた頃はたびたび洪水でひどい目にあったが、今は犀川ダムにより水害の心配はほとんど無くなたったという。




















この辺は点々と店があるが、ほとんどやっていないようであった。店を開いていた「河上とうふ店」に入ったら、おかみさんが出てきたので少し話をした。店の前のほうには、とうふ、あぶらあげ、こんにゃくなどが並べられていた。




















この辺りは昔、通りをまっすぐ行くと、新竪町、竪町の向こうに大和デパートがあり、八百屋、魚屋、洋服屋など商店が建ち並びにぎわっていたという。その後、大きな通りが近くにでき、また、大和も移ってしまってから行き交う人が少なくなり商店も少なくなってしまったという。
ここの豆腐屋も、昔は朝方非常に早く起きて豆腐などを作っていて忙しかったという。




















その近くに、店内に醤油、味噌やソースそしてウィンドーケースの中に皿に盛った佃煮などの珍味が並べてある店に入った。おじいさんが出てきたので話をした。「私は90歳になる。夫婦二人だけで住んでいて息子たちは都会に行ったままである」と言っていた。「店を開いていれば誰かお客さんが入ってきて話ができるからやっている」と言っていた。




















その隣には米穀店があり、向かい側にもあった。最近はスーパーで米を売っているので、今はどのような商売をしているのであろうか?そしてその隣には「幸田楽器店」があり、邦楽の三味線や琴が並べてあった。




















ここの店のおばさんと話をした。「最近は楽器もいろいろなものがあり、三味線や琴をやる人が少なくなってきた」と嘆いていた。店に三味線の長い竿の先端には蒔絵などのきれいな装飾が付いているものが並べられていた。
琴の大きな甲がウィンドウの中にたくさん置いてあったが、おばさんの父が、昔ここの2階で大きな桐を削りだして作っていたと言っていた。大変な職人技であったことが想像される。
大きな楽器だから持ち運びが大変なこともやらなくなっている原因でもあると言っていた。
日本伝統の邦楽も見直し、もっと盛んにやっていってほしいものである。特に伝統文化の残る金沢においては。




















続いて、真宗大谷派の「慶覚寺」に行った。ここは、あの有名な高尾城(たこうじょう)を攻めて大将格として富樫政親を滅ぼした洲崎兵庫(慶覚)が創建した。




















5年位前に改築したらしいが、境内に以前の屋根にあった大きな鬼瓦が置いてあり、「寺紋」が付いていた。




















また山門の裏手になぜか江戸後期の俳人で、蕉風の成田蒼きゅうに師事した「桜井梅室」の分骨が葬られている墓があった。


























続いて 宝憧寺に行った。ここはもと越前府中にあったが、2代藩主利長がこの地の招いた。木彫りの十一面観音立像は藤原期の作といわれる。金沢の三十三観音の寺めぐりの第一番札所である。








































宝憧寺の近くに「藤岡作太郎生家跡」の碑が建っているはずだということで一生懸命探したが見つけることができなかった。藤岡作太郎は四高の三太郎の一人で、西田幾多郎や鈴木大拙と仲がよく、「東圃」(とうほ)の号で有名である。ゼンソクの発作と闘いながら国文学を新手法で研究した人で、平安文学にメスを入れた「国文学史 平安朝篇」、「国文学史講和」、「近代小説史」などを出している。
この近くの通りは旧町名「早道町」といって、藩政期に足軽の飛脚が居住している組地があったところだ。飛脚のことを早道と呼んでいたためこの名がついたという。





















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