今回は、長町の前田土佐守資料館で「七日市藩」の「展示開設講座」があるということで行ってきた。この日以前に別の場所で詳細な講座があったが、別用事があったので残念ながら行けなかった。
「七日市藩」といえば、初代前田利家の5男の「利孝」が大坂夏の陣での功績で藩が与えられたと聞いているし、「前田16代当主利為」が「七日市藩」から養子に入った人だということしか知らなかった。
七日市藩は現在の群馬県富岡市にあった藩で、初代は前田利孝だが、加賀藩の分地されてできた富山藩、大聖寺藩と違って、幕府から新地宛行(しんちあてがい)によるものだった。1万石の領地を拝領し、上州七日市村に陣屋を構え、明治4年の廃藩置県まで存続した。
七日市藩の初代前田利孝が着用したと伝わる兜で、家譜などには大坂の陣の際にはこの兜を着用したと記されている。
七日市陣屋の藩邸(藩主屋敷)跡は、廃藩置県によって藩主が東京に移った後、学校の校舎の一部として使用されてきた。
下図は、1967(昭和42)年に富岡高校の郷土部が作成したもので、残っていた旧藩邸の図面と重なるものである。そして藩政期の陣屋敷地内には、この他に藩庁やか家臣屋敷、畑などが広がっていた。
江戸時代の上州は断続的に存続した9つの藩があり、時期によって領域は変化している。七日市藩は高崎藩5万石の南西部にあり1万石だった。この辺りは1~5万石の小さな藩が多くあった。
江戸の七日市藩の屋敷は「半蔵門」近くにあった。
下図は加賀藩、富山藩、大聖寺藩、七日市藩の系図で、江戸時代を通して養子縁組を行って、一族により家の存続を保った。
現存する「黒門」で、御殿と同時期に建築されたもので、藩政期には大手門と玄関の間の「中の門」として機能していた。屋根瓦の先端には梅鉢紋が付いている。
現存する藩主が居住した藩邸の一部で、玄関とその続きの建物である。
昭和初期のころの屋敷内の様子
前田利定は七日市藩の13代は藩主で、12代の長男で、5男だったのが利為で、前田本家の養子となり16代当主となった。
前田利為は、15代当主前田俊嗣の長女で渼子と結婚したが、渼子が没した後、1911(大正7)年に16代前田家の当主となり、本郷邸・駒場邸の建設や北海道の森林経営など家政を運営する傍ら、陸軍軍人として各地に就きました。また、1910(明治43)年には侯爵として貴族院議員にも列せられた。そして太平洋戦争中の1942(昭和17)年にボルネオ守備軍司令官に任命されたが、ボルネオのクチンからラブアンに移動する際、利為らが搭乗していた飛行機が遭難し、帰らぬ人となった。その後、藩祖利家の夫人まつが眠る京都大徳寺芳春院に埋葬された。
利為が行った多くの文化事業の中で編纂事業として、15代慶寧がまためた加賀藩・前田家の歴史編纂事業を引き継ぎ多くの編纂書物を刊行した。また、5代綱紀のまとめた「加賀藩松雲公」などがある。また、戦時下の不況により公開施設の建設物の整理売却によって得た資金により1926(大正15)年に「育徳財団」を設立し、前田家の蒐集コレクションは財団保有になり、それら管理・保管するための財団となっている。現在も「前田育徳会」として存続し、国宝・重要文化財などを含む侯爵前田家のコレクション財団創設から100周年になるという。
「七日市藩陣屋跡」の近くには「世界遺産」の「富岡製糸場」もある。
10年ほど前に訪れた「富岡製糸場」の私のブログ




