以前に「守護富樫氏」が築いた山城について私自身が資料などを読んで調査したことがあり興味はあったが、市が史跡指定に向けて発掘調査した説明会が「扇台公民館」であったので聞きに行った。今回は、昔、富樫氏が支配していた地域の伏見台、扇台、額校下の住民50人くらいが参加した。
高尾城跡は加賀の一向一揆衆たちと富樫氏が戦った舞台となったところで、この戦の後、日本歴史上珍しい加賀は一向一揆衆たちが約100年も支配したということである。
前回のこのブログでも説明したように、この戦の主要な場所である「ジョウウヤマ」は、ほとんど崩されてしまっているので、今回の発掘調査は「コジョウ」付近を中心に行われた。
以前の「高尾城跡」のブログ
https://kanazawa-burari.blogspot.com/search?q=%E9%AB%98%E5%B0%BE%E5%9F%8E%E8%B7%A1
コジョウはジョウヤマの高尾城址見晴台から約100m背後にある。ジョウヤマの曲輪は半分削られているのでよくわからないが多分コジョウの曲輪より広かったと思われる。ここからコジョウに行くには、すぐに北堀切があり、尾根道を通ってコジョウの主廓に入る。ここは標高186mで、約500m2の平坦部が広がっている。このジョウヤマとコジョウはどうゆう関連性があったのか質問があったが、よく分からないらしい。コジョウの北東方向に幅15m、長さ50m、深さ7mの大きな「東内堀切」、「曲輪」、「東外堀切」と続く。また、南方面には幅20m、長さ35m、深さが6mの「南堀切」がある。
下図はコジョウ主廓の平坦部
主廓は平坦部が2段になっており、その奥は50~60°の急傾斜地になった切岸になっている。
2段の平坦部の下段部のくぼ地に人頭大の川原石が多く集められていた。これは敵が攻めてきたときに投げつけるものかと言っていた。
これらの石の周囲に土師器皿や古瀬戸平碗が出土され、14世紀後半~15世紀前半代の遺構と考えらるという。他に珠洲焼すり鉢なども見つかっているという。また、中国製の渡来銭「熙寧元寶」が出土している。「熙寧元寶」は1068年から鋳造された中国北宋の貨幣で、中国より貿易により輸入され、渡来銭として日本国内で広く流通したという。
「東外堀切」発掘調査地
「南堀切」発掘調査地