2024年7月24日水曜日

敦賀ドライブ(6)金が崎城跡

 敦賀ドライブ(5)人道の道 敦賀ムゼウムの続きで、その後、「赤レンガ倉庫」や「敦賀駅資料館」などがある敦賀平野南東部を取り巻く山の方に向かった。ここには、「金ケ崎城跡」や「金ケ崎神社」がある。



















「金ケ崎神社」は、次回に紹介するとして、その裏手の山を登ると「金ケ崎城跡」にでる。



















「金が崎城」の築城は不明だが、1180年頃の古文書に越前国主に敗れた平通盛が籠城した「津留賀城」が金崎城のこととされている。ここで二度歴史を動かす合戦が行われた。
一度目は南北朝時代に、二年余りにわたる金ケ崎城争奪戦である。1336(建武3)足利尊氏が京で光明天皇(北朝)を擁立して室町幕府を開き、後醍醐天皇は吉野に下る(南朝)そして新田義貞は後醍醐天皇の皇子らとともに金ケ崎城に籠城した。その後幕府側の主力が攻撃を開始し、新田義貞は破れて撤退し、城は幕府側が取り戻した。しかしまた義貞の反撃により奪回したが、長期戦の末また幕府側が取り戻した。
二度目は戦国時代の「金ケ崎の退き口」と呼ばれる織田信長の撤退戦である。
1570(元亀元)年に信長は京から近江・若狭を経て越前に侵攻し、金ケ崎城の朝倉景恒を攻略し城を接収した。朝倉攻略の拠点とする構えを見せたが、近江の浅井長政が反旗を翻して越前国境に迫っていると聞き撤退したという。













「金崎城跡」へ急な階段の登り口から上った。


















途中に「金ケ崎古戦場」の石碑が建っていた。この古戦場は、決死の撤退戦で「金ケ崎の退き口」として有名で、信長軍には後に天下をとった豊臣秀吉、徳川家康や信長を攻めた明智光秀らもいたという。

15から20分上ったところで、辺りが開けた。ここは、金ケ崎の最高地(標高86m)で月見崎といい「月見御殿」と呼ばれる所である。

















この「月見御殿」の展望台からは、波おだやかな敦賀湾が見えた。今は横の岸壁に敦賀火力発電所やセメント工場などがあった。




































そしてこの一角に、1909(明治42)年皇太子時代に大正天皇が「月見御殿」を訪ねた記念に建てられた石碑が建っていた。この地に戦国武将が勢揃いしていたから来たのであろうか?

























帰りの下りる途中からは「新幹線敦賀駅」や先ほど見てきた「敦賀赤レンガ倉庫」などが見えた。