2024年7月17日水曜日

犀川大橋 百寿祭(2)御陣所太鼓ほか

 犀川大橋 百寿祭(1)の続きで、「犀川大橋 百寿祭」のイベントを紹介する。さらに人が多くなって舞台を見るには人の頭の間から見るしかなくなった。



















イベントの最初の催しは「御陣所太鼓」があり、まず説明があった。


















私が御陣所太鼓を初めて見たのは50年以上前で、その時既に東京に住んでいたが、金沢に帰省した時に友達と輪島に行き民宿に泊まった時に、その夜に輪島駅付近で「御陣所太鼓」の演技を見たが、怖い面とともにその演技が非常に迫力があり、すごいものを見せたもらったと記憶している。それでまた見たいと思っていた。

























御陣所太鼓の発祥は、天正年間(1573~92)に奥能登に上杉謙信の軍勢が攻め入った際に、村人が木の皮で作った面に海藻を着けて被り、夜半に太鼓を打ち鳴らして撃退したという武勇伝がよく知られている。


























しかし能登地方では、神輿の渡御をゴジンジョ、ゴゼンジなどと言われることから、御陣所太鼓はご神事の太鼓のことで、輪島市名舟の白山神社の夏祭りが7月31日、8月1日に行われる。7が31日の夜、舳倉島の奥津ひめ神社を遥拝する海中に建てられた鳥居まで神輿舟を出し、神迎えがなされる。神迎の儀を終えた神輿舟は静かに岸へ引き返し、村の西にしつらえた御旅所で一泊し翌日帰社する。この時に太鼓舟、太鼓山車に異様な扮装を凝らした仮面の者達が乗り込み、神輿の先供として太鼓を打ち鳴らしたのが元来の姿である。これが外能登の荒波を背にした有名な御陣所太鼓である。
今では、この御陣所太鼓は祭りの両日、浜辺の特設舞台で披露されている。大太鼓が中央に据えられ、夜叉、海坊主、山荒し、土左衛門、達磨などの面をかぶり、序・破・急の三段で打ち込まれる。この間、各自自由な形で見えを切り、面に応じた芸を入れ周り打ちする。さながら面の下に顔はなく、面そのものが本当の顔であるかの如く、凄愴、鬼気迫る想いにさそいにしまう。


















































昭和の初期には全国的に観光ブームが高まる中、能登半島では旧七尾線が輪島まで乗り入れが決まり、秘境とされていた奥能登をアピールするための策として御陣所太鼓に目が向けられ、発展していった。
太平洋戦争の時も御陣所太鼓だけは戦勝祈願の太鼓として特別に憲兵から演奏を許可されていたという。
戦後は、昭和35年に保存会を結成した御陣所太鼓は36年に輪島市無形文化財に指定され、38年には、日本文化芸能使節団として、日本の太鼓としては初めての海外ツアーにも参加した。何しろ昭和の頃は、あちこちに行って縁起を披露して回ったという。


















続いて招待者の開会のあいさつがあった。


















村山金沢市長のあいさつでは、「この100年間のうち今日が一番人出が多かっただろう」と言っていたが、100年前の大橋の竣工式の写真を見たら、橋の上いっぱいの人が映っていた。その後、水辺での乾杯があった。


















あまりにも人の多さに私はここで帰ることにしたが、まだまだ大橋に来る人もいた。まだまだイベントが続いていて、最後の「にし」の芸妓による踊りも見たかったが、あきらめた。


















「亀割坂」付近では、市内の小学生に作成の行灯が展示されていた。


















金沢市内の思い思いの景色の大作の絵が並べられていた。


















また、金沢生まれのビールなどの販売されたキッチンカーも出ていて、盛り上げていた。