2024年6月13日木曜日

敦賀ドライブ(2)気比神社②

 敦賀ドライブ(1)気比神社①の続きで、さらに神社内を歩く。「外拝殿」の回りには立派な柱や長押、梁、屋根下の垂木の下に釣灯篭がぶら下がっている。



















回廊出口の木造の扉には、金色の菊の御紋と銅板の文様が付いている。























奈良時代から平安時代にかけて、渤海使が相次いで日本海沿岸に漂着した。当時の日本の対外窓口は大宰府であったが、渤海使は海流の影響は、で日本海側のいろいろな場所に来着するため、その場合は敦賀で上陸させて、迎賓館である松原客館に滞留させた。松原客館は気比神宮宮司が管理、監督することになっており、敦賀湊の行政機能に気比神宮が深くかかわっていたという。紫式部の父である藤原為時は文学の才能を認められ996(長徳2)年に越前国守になり、松原客館で渤海使に漢詩を披露した。このように文学の面でも、敦賀は海外文化の窓口であった。

























気比神宮古図には、戦国時代前の古い境内図が記されている。この中には神宮寺、食堂、鐘楼、塔といった寺院施設があり、神仏習合の姿が見える。他に音楽殿や本殿前に右、左楽屋が見える。平安時代の歌謡集の中に、気比歌、気比神歌が残されていることから、古代の気比神宮では、神事の際に神学歌が歌われていたという。


















天筒山の方向、神宮北東部に残る「土公」は気多大神降臨の地とされ当神宮鎮座にかかる聖地である。社殿家屋建立の際に「この土砂をその地の撒けば悪しき神の祟りなし」と信ぜられる伝説と神秘に富む神代の述霊である。古い時代には、大きな岩を中心とした山での祭祀、大木を中止なとした森での祭祀など自然の形を損なわなく祭祀が営まれた。仏教伝来の影響もあって、奈良時代から現代のような社殿を建て祭祀を行うように変化した。


















「大神下前神社」は、末社で祭神は大己貴命、式内社、敦賀市内気比大神四守護神のひとつとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間に現在の地に移転された。特に海運業者の信仰が篤い。


















「角鹿神社」(つぬがじんじゃ)は、摂社で祭神は都怒我阿羅しとを祀った神社である。
ツヌガアラシトは朝鮮南部の国・任那(みまな)の皇子で、第10代崇神天皇の御代に気比の浦に貢物をかかえて携えて上陸し、気比大神宮の司祭と越国の政治を任せられた。その政所跡にツヌガアラシトを祭神として祀られた。
























昭和天皇在位60年記念として植えられた「紅白梅」


















この天然記念物「ユーカリ」の巨木で、当時の陸軍関係者が武運長久を祈願して献木されたものである。オーストラリア原産・フトモモ科ユーカリ属の常緑樹で、当時は北緯の寒冷地に生存することは珍しいといわれたが、昭和58年に天然記念物に指定された。平成29年、30年に相次いでの台風により大木が折れる被害にあい、様相が大きく変わった。
























絵馬堂の周りには池があり、橋を境にして「亀の池」と「南の池」に分かれている。


















池の中には、水をまくように噴水があり、多くの鯉が泳いでいる。池に近づくと多くの鯉が自分の所に寄ってきた。































平成28年には、気比神社境内地の全域が気にの名勝「奥の細道の景勝」に指定された。芭蕉は「奥の細道」の旅で、「月を詠むことが目的の一つであり、杖置きの地敦賀のでの中秋の名月を心待ちにしていたという。
芭蕉の銅像の下に「月清し遊行の持てる砂の上」が刻まれている。
























1689(元禄2)年8月14日夕刻に敦賀に入り快晴である。。芭蕉は旅籠出雲屋に宿を取る。「明日の夜もかくあるべきにや」芭蕉の問いに出雲屋の主人は「北陸の天気が変わりやすい。明日は分かりません。今のうちに(気比神宮に)参りませんか」と答えた。それならばと夜参りに出かけ月を堪能する。翌朝の天気は主人の言葉通り雨天で、「明月や・・」の句を残す。