2020年12月12日土曜日

那谷寺(3)奇岩游仙境 稲荷社

 那谷寺(2)琉美園 三尊石 了了庵の続きで、その後、両側の木が真っ赤に紅葉している長い参道の先を進んだ。

























参道の左手には、紅葉した木々で半分隠れているが、すごい大きな奇妙な岩が見える。これが那谷寺の有名な「奇岩游仙境」である。




























大昔に海底火山が噴火によって隆起し、波によって浸食され、神秘的な形になったという。この奇岩が那谷寺の本尊の一つである。



















那谷寺の向こうにそびえる白山には、自然を崇拝する白山信仰が古くから存在する。その白山を山岳修行の場として開いたのが、この奇岩を発見し、那谷寺を開いた最澄である。彼が夢のお告げにより白山に上ると、山頂に十一面観音が現れたという。那谷寺にその十一面観音像を掘り、輪廻転生の信仰があった岩窟に安置したのが始まりとされる。
岩が織りなす自然の造形美が、この地に根付いていあた白山信仰や自然信仰と合体し、境内は最澄を慕う人々や修験道で賑わったという。
平安時代中期に、出家して全国を巡礼していた花山法王は、岩窟内で光り輝く三十三身の観音を見た。法王はここは西国観音霊場三十三所のすべてに匹敵するご利益があるといい、第一番・那智山と三十三番・谷汲山から一字ずづとって、那谷寺と命名したという。
南北朝時代は足利尊氏に接収され、さらに新田義貞の攻撃を受け、山もろとも焼失した。また、一向一揆が起こると、浄土真宗に改宗する僧や信者が続出し、こうして那谷寺は衰退した。
この窮地を救ったのは、加賀藩主・前田家で特に3代利常が、本堂や護摩堂、三重塔、鐘楼、書院などを次々に造り再建させた。
しかし明治期には廃仏毀釈で再び存続の危機にさらされるが、1941(昭和16)年に江戸時代築造の建造物が国の文化財に指定された。今では紅葉の名所として知られ現在に至っている。
「楓月橋」から見る「奇岩游仙境」と紅葉の風景




























中門をくぐると左手には、「奇岩游仙境」とその中腹にある「稲荷社」に行く道があるが、現在は安全と景観保護のために立入禁止となっている。



















朱色の鳥居が鮮やかな稲荷社を祀って、五穀豊穣と豊かな自然を祈っているという。
























奇岩游仙境の岩肌は荒々しい。ここは寺の本尊でありながら、修験者たちの道場でもあった。





「百寺巡礼」より


















石段の終わりには洞窟があり、なかではかって修験者たちが修行を行っていた。洞窟の内部は、自然への信仰を伝える貴重な場所であった。修験者たちはこの空間を、母親の胎内になぞらえたという。




「百寺巡礼」より











「奇岩游仙境」の全様(山門前の案内板より)