2018年5月25日金曜日

鶴来巡り(5)小川幸三墓碑 一閑寺

鶴来巡り(4)の続きで、その後「鶴来レインボーライン」を通り、通りの山側にある「朝日小学校」に行った。この小学校は、まだ建って間もないのか新しく、立派な学校である。かなりの高台にあるので、下の鶴来の街に住んでいる子供たちも登校には大変だと思う。



















この学校の広場に「小川幸三」の銅像が建っている。この人は、1863(天保7)年に鶴来町で生まれ、29歳で亡くなったが、加賀藩の数少ない勤王の志士でる。医師の父のあとを継いだが、「医師は人を救うが、私は国を救うすべを学びたい」と、金沢・京都・江戸などを奔走し、13代藩主斉泰に建白書(藩が勤王方に就くよう勧めた書状)を再度にわたり差し出した。そのため藩は大揺れに揺れ紛糾した。佐幕派と尊王攘夷派を訴える長州藩が、国内紛争と発展していき、二度の建白書を藩に訴えた幸三を江戸や京都の事情に詳しい人物と見込んで、14代藩主慶寧が京都の守護警備に就くと幸三らの藩士に託した。しかし長州藩は京都を武力で攻め、慶寧一向は守護警備の仕事を放棄し、金沢へ帰った。この後、加賀藩の幸三ら尊王攘夷に携わった藩士や商人ら43名を捕らえた。そのうちの最も重罪とされた幸三らを含む4人が、ついに処刑されたという。しかし、その3年後の1868(明治元)年に幸三らが訴えたとおりに江戸時代は終わり、新しい明治時代になった。
ここ朝日小学校では、毎年10月25日に「菊まつり」を行い、小川幸三の遺徳を偲んだいるという。
























続いて、船岡山のふれあい昆虫館近くにある「小川幸三」の墓碑を見に行った。
最初は、この墓碑の位置が分からなく、近くの新しい墓地にお参りに来ていた地元の人に聞いて、ようやくたどり着いたが、杉の木立と石囲いの中にあった。



















正面の「小川幸三墓碑」の右わきには、幸三に寄り添うように「小川直子の碑」があった。幸三が処刑されたため結婚の期間は1年で、自分も自害しようとしたが、父や兄に止められ、学問の道に進んだ。そして、金沢女学校・県立女子師範学校教諭などを経て、54歳の時に、高輪御殿で明治天皇の娘の教育係となり、10年間務めたという。小川幸三を慕い続けた直子は、貞女、節婦と称えられ、鶴来の女性の会の人たちは命日の9月6日に遺徳を偲ぶ墓前祭を行っているという。



















高台を走っている「レインボーライン」からは、鶴来の街並みが一望できる。白い高いビルは銘酒「菊姫」の工場である。

































ここから金沢方向に戻ると、旧鶴来街道と交差する「月橋」の手前の道を曲がると「一閑寺」という、ちょっと変わった建物のお寺がある。ここは、かって曹洞宗宝円寺天徳院触下として、鶴来村拝領の後に開山されたが、今は浄土宗不動山一閑寺として、鶴来・金沢方面からの崇拝者が多いという。旧本堂を模して昭和43年に鉄筋コンクリート造りに改築されたという。町指定の名勝「鶴来八景」となっている。



















この中に入ると、大きな岩に掘られた高さ8mという「磨崖不動明王」がある。
泰澄大師が、月橋付近で目の病気に困っている村人に出会い、気の毒に思った最澄は、今の一閑寺裏の山肌に不動明王の像を彫り、村人に「この不動さんを白山神像と仰ぎ、一心にお祈りすれば、きっと治る」と言い残し白山に向かった。村人は一生懸命に像を拝むと、不思議にも眼お病気が治ったという。この言い伝えを聞いた宝円寺の住職が1631(寛永8)年に、この不動さんを大切にしようと一閑寺を建てたという。その後炎上したが、やはり宝円寺の住職が石工に岩肌の壁面に彫刻させ、高さ8mの不動明王を完成させたという。ここに入るとその大きさに圧倒される。
























この寺の境内の庫裏の裏に、1840(天保11)年に落慶法要が営まれた「一閑院法要搭」がある。この法要搭の中には、経石一つに一字づつ、経文の全巻67304字を書き納めていることや、当時の住職の「民心安定」「七難即滅」の願いが込められて建立したものだという。鶴来の町のこんな分かりづらい所に、このような立派なお寺があることを知らなかった。

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