2017年7月25日火曜日

扇町、暁町、横山町界隈(1)広済寺 西光寺

今回は、「公園下」から「兼六大通り」の扇町、暁町、横山町界隈を歩いた。
まず、大通りの左側に「旧御小人町」の標柱があった。藩政時代、藩主の行列の際にその身のまわり品の茶弁当、矢箱、提灯などを運ぶ御小人の組地であったので、この名がついた」とあった。
























その先を右に回ると大きな寺の「伊佐山 廣済寺」があった。
この寺のパンフレットによると、創立は、文亀元年(1501)3月15日に蓮如上人の命を受けた江州広済寺十代厳誓房祐念の二男祐乗坊が、本山の別院尾山御坊の看坊職として派遣せられたのが初めである。
看坊祐乗房に引続き二代祐念房、三代祐盛房にいたる八十余年間は、加賀は浄土か極楽かと、他国からうらやまれる平和な善政が続いた。



















天正八年(1580)となった時、本願寺を敵とする織田信長の命を受けた柴田勝家が、越前から軍を進め、先陣佐久間玄蕃盛政のため、御坊は陥落したのである。看坊祐盛房は逃れて内川郷の山中に難を避け、村民と共に宗門を守った。今も山川・別所・小原・平栗・新保等に残る檀家によって昔の名残を留めている。



















尾山御坊の陥落で、内川郷に難を逃れた三代看坊祐盛房。四代祐玄房を経て五代祐益房の時、即ち寛永十七年(1640)に、三代藩主前田利常公から安江郷に寺地を、次いで現在地を賜って移転し、毎年蓮如・実如両上人の追悼法要を営み、御坊から伝わる宝物の開帳を行ったので、人々は「武佐の御忌」と呼んだ。この御忌には、石川門の外で百間堀上にある御坊の遺跡「おちょぼが井」からその昔朝夕仏に供える水を汲んだ当寺の侍女おちょぼが、雲を呼び雨を降らし、蛇体となって宝物にお詣りすると言われ、三月一日から三日間の御忌には必ず天気が悪くなり雪が降ると伝えられ、多くの善男善女が門前市を開いたと言われている。






















この寺にはお宝がいっぱいありそうなので、3月2日、3日の御開帳には、そのお宝などを見せてもらえるということなので、忘れずに行きたいと思う。
本堂の玄関の扉周りの彫刻は、私が最近見たお寺の中でも特に素晴らしいものであった。
























境内にある梵鐘




















「広済寺」のお寺の横の通りの向かいに、国登録有形文化財に指定されている築80年の町屋を改造した「あかつき屋」はゲストハウスとして外国人に人気がある。ここで泊まった外国人が隣の寺を訪れることもよくあるという。このお寺の玄関の彫刻を見ただけで、中に入りたいと思うことだろう。




















さらに奥に歩いていくと、玄関に大きな松の木はある武士系の「町屋」があった。




















続いて、近くの「西光寺」に行った。この寺は真宗大谷派のお寺で、越前西光寺永存に嫁した蓮如の妹栃川尼公が、その三男蓮実とともに河北郡に創立し、天正中ごろに金沢に移ったといわれる。以前は、寺の前に用水が流れていて「橋の上の御坊」と呼ばれていた。
津幡から藩命でここに移されたが、ひとつは一向一揆を起こさせないための予防であり、ひとつは家臣がたむろする住宅の真ん中に伽藍を置いて城の防備に役立てたという。




















金色の「西光寺」の扁額と梁が印象的である。



















山門横の土塀の裏に、俳句が描かれた石碑と菩提樹、小さなお地蔵さんと手水鉢があった。