2017年7月17日月曜日

壮猶館(2)鈴見鋳造所 七尾軍艦所 

壮猶館(1)の続きで、加賀藩の軍事産業としては「五箇山の煙硝製造、土清水の製薬所、上野弾薬庫、小柳製薬所(鉄砲銃火器用火薬製造所)、鈴見鋳造所などがある。
下図は「鈴見鋳造所」の翻刻図である。



















上図の「物置」辺りが、山側環状線の「鈴見」交差点から鈴見台1丁目に入ったすぐの右手のコンビニ辺りだという。その横に「錐台所、水車」があり、その上部に「鋳造炉 5挺」が見える。この場所に石型を置いて鋳造を行っていて、できあがった砲身を錐台所に搬出されたという。



















近くの「鈴見どんぐり公園」の横には、水路の「いぞうば川」が流れている。
「土清水塩硝蔵跡」は説明板があったり、再現されているところがあるが、この「鈴見鋳造所跡」は、その遺構がほとんど残っていない。




















また、このころ江戸幕府が外国船からの防衛のために計画した台場と呼ばれる砲台を装備したように、加賀藩でも藩士の河野道義は、高島流砲術を勉強し、打木浜で大砲の試射を行ったという。



















「七尾軍艦所」は1861(文久元)年に、幕府より英国艦船が測量のために加賀藩に入ることもあると警告を受けて、壮猶館の組織の中から航海部門だけを独立させて、所口と西町に軍艦所を作ったという。金沢西町は公開学術学科中心で実習はなかった。今の尾﨑神社のある所と聞いた。七尾は艦船実習と軍艦根拠地になった。




















七尾軍艦所内に、加賀藩は「七尾洋学所」を設け、教師として「オズボーン」を招いた。
その当時に「道済館」という英仏学塾所があったが、日本人によるヒアリングやスピーキングを無視した文書中心の教育であったので、実際の外国人に接した教育が必要ということで「オズボーン」が選ばれたという。刀を差した侍姿の写真も残っており親日家であり、金沢時代に余暇を利用して金沢城内外の建物や庭園を見学したり、近郊で狩猟を楽しんでいる記録を残している。























「オズボーン」から教えを受けた語学生には、後に世界で活躍した化学者の高峰譲吉や理学博士の桜井錠吉などがいる。桜井錠吉はのちに「分かりやすい教え方で語学が非常に上達した」と言っている。



七尾軍艦所は加賀藩の軍港で、俗に「梅鉢海軍」の根拠地として、艦船の保守管理と操縦や測量などの実施訓練を行っていた。そして、ここにヨーロッパから購入した7隻の艦船の基地であった。
その中で、英国から買った艦船「発起丸」が宮腰の港に来た時に金沢の大勢の民衆が見に行ったことや、将軍が上洛するときの随行船として使われたことや、その修理が大変だったことなど、面白おかしく描かれた本「軍艦発起丸と加賀藩の俊傑たち」徳田寿秋著を2年位前に読んだことがある。軍艦発起丸には佐野鼎が搭乗しており、艦船の費用は、現在のお金に換算すると24億円に相当するという。