2017年7月13日木曜日

壮猶館(1)

今回は、石川県立歴史博物の「れきはくゼミナール特別公演会」で、金沢星稜大学の本康宏史先生の「加賀藩壮猶館」の話を聞いてきたので紹介する。
加賀藩は、1794(寛政4)年に創設された明倫堂と経武館という藩校が陪臣とその子の教育機関として重要な役割を果たしてきた。しかし、19世紀初めになると欧米などの列強の進出が相次ぎ、13代藩主前田斉泰は海防のために能登を視察したり、1854(安政元)年に加賀藩洋式兵学校として「壮猶館」を創設した。
「壮猶館」は現在でも柿木畠の知事官舎の横に門だけ残っている。



下図は、藩政期の風俗画で知られる巌如春(明治、大正、昭和の画家)が描いたもので、上半分は「壮猶館」、下の半分は明治初期の洋学校で、金沢城内にあった致遠館である。左端に橋と用水が見えるが、西外惣構えの「宮内橋」付近にあった。
「壮猶館」は、もとは加賀藩士800石の大橋作之進の自邸に設けた私設研究所だった。大橋作之進は天文学の達人の西村太中に学び、西洋砲術などにも関心を持っていた。



















そして、長家の河野久太郎、菊池家の家臣の加藤久太郎や医師の黒川良安らが関与して、建物が整備されて「壮猶館」が設立された。
黒川良安は、13代前田斉泰の蘭医師となり、金沢で最初に種痘を試みた。「壮猶館」では翻訳校合方に任命され、蘭医師とともにオランダ医学書を呼んだ。これが西洋医学研究の始まりとなった。























教師には、鹿田文平、安達幸之助(大村益次郎の「鳩居堂」の塾頭、後に大村益次郎とともに京都で暗殺された)、佐野鼎などそうそうたるメンバーがいた。佐野鼎は西洋砲術師範として加賀藩に招かれた。また、英語力を生かして遺米使節団に随行し、帰国後「奉使米行航海日記」を13代前田斉泰に献上している。
























「石川県立歴史博物館」で、「壮猶館」の当時に使わていた書類などが展示されていた。
砲術に関しての生徒のノートの写し



















砲術洋式のテキストの一部



















「壮猶館」で使われていた「長押」



















「壮猶館」で使われたいた「拍子木」



















自然科学の英語本で、「壮猶館」の洋式兵学は翻訳から始まった。



















「壮猶館」での歩兵演習の教科書