2014年6月4日水曜日

金沢駅界隈(3)

前回の続きで、昭和町付近は再開発される前に、戦後まもなくは闇市が開かれていたが大火があり、その後は飲食店が立ち並ぶ「新天地」であったとか。私の子供の頃は、この辺に来たことがないので、どのようだったかまったく知らない。昭和30年代頃には、彦三、尾山町に飲食店があったのは、私も知っている。




















古めかしい店が何軒かあったが、昔の「新天地」の時からやっているのであろうか?




















小路に入り角にある店は、なまこ壁が美しい木造3階建ての建物で、忍者屋敷のような武家屋敷のような感じの大正時代に造られたという「ステーキ山下屋」である。ここは能登牛など国産和牛の専門店で、金沢のステーキの老舗である。
私が30年近く前に、東京から金沢へUターンしてすぐの1年半くらいは、毎日、車の渋滞を避けるためにこの小路を通勤したが、その頃にも立派な目立つ店だったという印象がある。




















その先に、大きなビルの中にひっそり建っているのは「白髭神社」である。金沢の天神の25社のひとつである。
能登の中居村(現在の穴水町)出身の初代宮崎寒雉が前田利家に召されて、この神社あたりの「白髭前」に屋敷を与えられ、藩の御用釜を作っていたらしい。
現在でもずっと引き継がれていて、14代宮崎寒雉が彦三の一角の工房で湯釜などを作っていることをこのブログで紹介したことがある。








































この神社の横に「旧田丸町」の標柱があった。
加賀藩士の田丸兵庫が住んでいたところで、兵庫は寛永期に大聖寺藩に仕えていたことから、田丸兵庫上ヶ地町と呼ばれていた。後に略してこの名が付いたという。


























他にも、昭和通に二つの標柱があった。ひとつは「旧島田町」で、藩政の初期から元禄の頃まで当地に島田勘兵衛上地町と呼ばれ、享保の町絵図では島田町と記されている。




















もうひとつは六枚町交差点付近に「旧柳町」の標柱がある。この町名の由来は、かって伊予西条城主だった一柳監物の預所があり、その名に因んだという。その周辺に柳の木があったことによるとの説もあるという。
一柳監物直興は1661(寛永元)年に女院御所造営助役の役目怠慢、参勤交代の遅参などで幕府から所領を没収され、加賀藩の5代の前田綱紀のお預けとなった。綱紀は監物に帯刀を許し、百人扶持をあたえるなど努めて厚遇したという。




















また、駅から東別院方向の小路に「金沢茶屋」という店がある。最近、お客さんの「おもてなし」と家族の祝いで2度入ったが、和倉温泉「加賀屋」グループの店である。
そういえば確かこの辺の場所だったと思うが、子供の頃には「茶屋旅館」という旅館があり、大相撲が金沢に来たときに「胸毛の朝潮」がここに泊まっているという張紙を見たことを覚えている。

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