石川県立美術館で浮世絵の「北斎・広重展」をやっていて、非常に興味があったので9月の末に見に行った。
北斎と広重は、江戸時代の浮世絵師の中でも最も有名な絵師であるとともに国内外でもよく知れた浮世絵師である。
館内の「北斎・広重展」に入る前の壁に、北斎の描いた有名な「赤富士」が掲げられていた。
北斎は、波乱万丈な90年の生涯で、30数回の改号、93回もの引っ越し、常に借金に追われる生活の中で膨大な作品を作ったという。その作品は「富嶽三十六景」に代表されるような大胆な構図と巧みな線と、独特な色使いで仕上げており、その画風は多くの絵師たちに大きな影響を与えたという。北斎の影響は、国内だけでなく「北斎漫画」に衝撃を受けたフランス人銅板画家・ブラックモンなど、美術仲間から北斎の名前が広まり、ジャポニズムブームが巻き起こったという。
北斎が生涯で93回も引っ越ししたというが、掃除を一切せず、ゴミがたまると引っ越意を繰り返すという有様であった。
90歳で天寿を全うした北斎は、当時としては驚くべき長寿であった。68歳の時に中風を患
へしが自ら柚子の薬で病気を治したという。また、90歳まで長生きした要因は、酒もたばこもやらず、辛いもの(塩分)も口にしなかったことが大きいという。大福などスイーツは大好きだったらしい。
また、北斎は旅好きで遠くまで出かけていたという。80歳を超えてから、250km離れた4度も長野の小布施まで行ったという話は有名である。
1999年の雑誌「LIFE]がこの1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人の中に、日本人で唯一選ばれたのが葛飾北斎であった。世界が認めたアーティスト、葛飾北斎は、今から265年前の1765(宝暦10)年に生まれ、北斎が浮世絵師として活躍した江戸の後期、文化・文政から天保年間は、江戸を中心とした「町民文化」が大きく発展した時代であり、北斎が時代の寵児となり、多くの作品を残したのはそんな時代であった。
若いころから浮世絵師として活躍した北斎は、その表現を変えながら、画家としての技術を高めていき、様々なジャンルですぐれた作品を残している。そのパワーが全開になり、単なる「浮世絵師」という枠からはみ出していくのは、70歳過ぎからで、その旺盛な創作意欲は90歳で亡くなるまで衰えなかったという。
例えば、「名所絵」のなかの「諸国瀧廻り 下野黒髪山きりふきの瀧」流れ落ちる水の表現や真ん中に表現した大きな瀧を配した大胆な構図は他には見られないものである。
同時期の「百物語 さらやしき」も一般的な「幽霊画」とは大きく異なり、北斎ならではのユニークな作品になっている。
ここからは、有名な「富嶽三十六景」は後日載せるとして、北斎の風景画の一部を紹介する。
下図は、おとぎ話で知られる「浦島太郎」の物語の中の、太郎が竜宮城へ案内された場面である。中央の釣竿を持った男が太郎で、傍らにいるのが亀。異国風の建物の奥にいる女性が乙姫である。
江戸時代の隅田川の夕涼みは、陰暦5月28日から3か月あり、初日には花火が打ち上げられた。両国橋の上は見物人で賑わい、川面には涼み船が集まっている。川の袂には見物人を当て込んで、茶屋や見世物小屋が立ち並んでいる。
九段内が淵は、江戸城の一部で田安門と清水門の間にある。牛が急坂を荷物を積んだ大八車や武士たちが行き交っている。山のように盛り上がった土手は、西洋画法をまねた陰影表現が施され、立体感が強調されている。
「よつや十二そう」は角筈村(現在の西新宿)の十二社権現のことで、その境内の風景で、近くには図のような瀧があった。
多摩川の河口に位置する羽田村に鎮座していた羽根田弁天社で、図の左奥にその鳥居と社殿が見える。図面中央の極端な角度の板橋は三角形を作り出している。北斎が好んで描いた幾何学的な構図である。
下総国行徳の塩浜(現在の千葉市市川市)は、かって江戸湾最大の塩田地として知られていた。右下の砂浜がその塩田地だった。水平線に続く陸地は房総半島である。低い位置にある水平線も西洋の透視図法からの影響である。
全国各地の橋をテーマにした「諸国名橋奇覧」の中の一つで、 本図は山城国(現京都府)の嵐山の麓を流れる川の渡月橋を描く。川辺に桜が咲きほこる春の風景で、川の筏は、丹波地方の木材を京都に送るもの。
「諸国瀧廻り」は、水の流れの様々な形態に注目し、諸国の瀧を描いている。本図は木曽街道(中山道)の信濃国上松宿付近にある小野の瀧を描く。上から下に垂直にかつ力強く流れ落ちる水流の描写によって、この滝のダイナミックさが表現されている。











