2025年7月29日火曜日

大桑日吉神社

今回は、時期になったら最近いつも行っている 「桃の直売」の店桃を売り出すということで、家のものと近所の人を乗せて、大桑にある店へ行った。9時30分から整理券を出すということで、8時40分に着いたが、既に多くの人が行列についていた。


































それで行列は家内たちに任せ、私は近くにある神社を見つけたので、そちらをゆっくり見ることにした。ここは人気がない「大桑日吉神社」であることが後で分かった。
境内入口には石と煉瓦でつくられた楼門型の鳥居が立っていた。その上部の望楼には「梅鉢紋」が彫られていた。この鳥居は明治初期に起こったもめ事の和睦の際に献上されたという珍しい様式のものである。尾山神社の神門と似ている感じもし興味が湧く。



















その横に鎖が張られた中に灯篭の上部の火袋や笠が2対置かれていたが、この神門の上に載っていたのであろうか?能登地震で壊れたのであろうか?


















こちらは本来の鳥居と「日吉神社」の標柱、参道の奥に拝殿が見える
日吉神社の創建ははっきり分かっていないという。鎌倉時代の1227(嘉禄3)年に富樫氏の一族である大桑讃次郎光行が白山神社の神主になった際に、この本殿を建て、神に供える田んぼを寄進したという言い伝えがある。このことから、日吉神社はそれ以前から存在していたと考えられる。すなわち1227年前以前からこの地にあったという古い神社ということである。


















鳥居をくぐると左手に大きな石碑が建っている。多分この神社の由緒が描かれているのだろう。その下側には二つの石造があり、一方はかわいい牛の形をしていたが、もう一方は壊れたのであろう。



















その隣には龍の口から水が出るようになっていて、その下には赤戸室の面白い形状の水溜石(?)の立派な「手水鉢」がある。


















左奥には大きな鬼瓦が飾られ、その下方の両側に亀に彫刻された石造が置かれていたが火除けのおまじないのためか?


















その手前には「おみくじ」を吊るす紐が張られていた。
























こちらのふたつの石は苔むしていたが「夫婦石」それとも「力石」(?)


















拝殿の前には立派な「阿吽形」の狛犬が祭神を守護している。


















配膳の前には「日吉神社」の扁額がかかり、お参りのための鈴のついた紐がぶら下がっている。建物はかなり古そうである。



















拝殿は、わずかに開いていたが、そこで丁寧にお参りし、拝殿の奥の幣殿、本殿を見た。
























拝殿の横にも出入り口があり、鳥居が立っている。


















神社の奥は、大きな杉などがうっそうと茂り、静けさと神聖な趣を醸し出している。


















境内の後ろには、石垣が積まれていた。


2025年7月23日水曜日

高尾城跡 コジョウ発掘調査説明会

 以前に「守護富樫氏」が築いた山城について私自身が資料などを読んで調査したことがあり興味はあったが、市が史跡指定に向けて発掘調査した説明会が「扇台公民館」であったので聞きに行った。今回は、昔、富樫氏が支配していた地域の伏見台、扇台、額校下の住民50人くらいが参加した。

高尾城跡は加賀の一向一揆衆たちと富樫氏が戦った舞台となったところで、この戦の後、日本歴史上珍しい加賀は一向一揆衆たちが約100年も支配したということである。

前回のこのブログでも説明したように、この戦の主要な場所である「ジョウウヤマ」は、ほとんど崩されてしまっているので、今回の発掘調査は「コジョウ」付近を中心に行われた。

以前の「高尾城跡」のブログ

https://kanazawa-burari.blogspot.com/search?q=%E9%AB%98%E5%B0%BE%E5%9F%8E%E8%B7%A1










コジョウはジョウヤマの高尾城址見晴台から約100m背後にある。ジョウヤマの曲輪は半分削られているのでよくわからないが多分コジョウの曲輪より広かったと思われる。ここからコジョウに行くには、すぐに北堀切があり、尾根道を通ってコジョウの主廓に入る。ここは標高186mで、約500mの平坦部が広がっている。このジョウヤマとコジョウはどうゆう関連性があったのか質問があったが、よく分からないらしい。コジョウの北東方向に幅15m、長さ50m、深さ7mの大きな「東内堀切」、「曲輪」、「東外堀切」と続く。また、南方面には幅20m、長さ35m、深さが6mの「南堀切」がある。


















下図はコジョウ主廓の平坦部


















主廓は平坦部が2段になっており、その奥は50~60°の急傾斜地になった切岸になっている。
















2段の平坦部の下段部のくぼ地に人頭大の川原石が多く集められていた。これは敵が攻めてきたときに投げつけるものかと言っていた。
















これらの石の周囲に土師器皿や古瀬戸平碗が出土され、14世紀後半~15世紀前半代の遺構と考えらるという。他に珠洲焼すり鉢なども見つかっているという。また、中国製の渡来銭「熙寧元寶」が出土している。「熙寧元寶」は1068年から鋳造された中国北宋の貨幣で、中国より貿易により輸入され、渡来銭として日本国内で広く流通したという。

















「東外堀切」発掘調査地
















「南堀切」発掘調査地

















高尾城跡付近の航空レーザー測量で作成した美地形表現図
いろいろな色を試したがこの赤色が一番見やすいという。「ジョウウヤマ」や「コジョウ」の位置がすぐエア分かる、。

2025年7月18日金曜日

金沢の昔のくらし くらしの博物館

 「くらしの博物館」での企画展「金沢の小学校」を見た後、常設展示されている「金沢の昔くらし」について引き続いてみる。

金沢の昔ながらの高級なお座敷にこの赤い「紅殻色」の壁の部屋がある。特に「お茶屋さん」のお座敷は、この「紅殻色」が多い。他に金沢独自の「群青の間」のお座敷は最高級のおもてなしをする部屋として使われている。



















桐のタンスは、金沢では花嫁が嫁入り道具として持ってきたので、昭和初期あたりまで各家によく見られた。

























「桐火鉢」は、金沢の伝統工芸品で、表面を火で黒く焼き、表面に金箔や螺鈿をを施す。



















「磁石式電話機」は右側のハンドルを回して電気を起こして使うもので、電話交換手を通して相手と話すもの
























昭和30年代ころのテレビは、ほとんどが14インチで奥行が長く、チャンネルを変えるのは右下のダイヤルを回すタイプだった。よくチャンネル争いをやるとここだけが最初に壊れていたようだ、
























昭和30年代初期のころにあった出始めの頃の「電気洗濯機」で、右上のハンドルを回してローラの隙間を通し洗濯物を絞るというものだ。
























これも30年代にレコード盤より薄くて柔らかい「ソノシート」というものが流行り、雑誌の付録として付いていたり、安価だったので生徒だった私らも買うことができ、手軽に音楽が聴けた。音はよくなかった。



















昭和初期からある「加賀の玩具」には、「獅子頭」や「八幡起上がり」、「米食い鼠」、「張子の虎」などがあり、それぞれ福を招くなどの「おまじない」があり、各家によくあったという。年賀切手の題材にもなったのを覚えている。




















「電気あんか」や「アルマイト性弁当箱」、「ホーロー鍋」も懐かしい用品である。生徒の頃この弁当箱をハンカチで縛って袋に入れて持って行ったことが懐かしい。


















これも子供のころによく使ったインクに付けて書くペンや万年筆があったが、現在は全く使わなくなった。


















メンコ(金沢ではペッタ」は円形の大小のものや長方形のもので、古くは武将などの絵だったが、後にテレビの人気者の絵などになった。私が小学校5,6年にペッタでの戦いをよくやっていたが、ペッタは長方形で軍旗物の絵だった。
























私の子供のころには、このような大八車の載せて「こやし」などの桶を載せて家々を回っていたことを覚えている。しかし「こやし」だけでなくいろいろなものを運んでいたようだ。



















「三八豪雪」は、この年に自分の家の屋根の雪下ろしを2回やった記憶があるが、こんな状態になる。


2025年7月14日月曜日

金沢の小学校 くらしの博物館

 今回は、飛梅町にある「金沢くらしの博物館」で、「金沢の小学校」の企画展をやっているということで見てきた。

























「金沢くらしの博物館」は明治期に建てられた「三尖塔」で有名な「金沢第二中学校」の建物である。この建物についての以前のブログ



















現在の金沢観光の立役者の「山出保さん」の建てた石碑が建っていたが、山出さんは、この「金沢第二中学校」の卒業生だったと記憶している、



















「金沢の小学校」の企画展では、1870(明治3)年に「小学所」が設けられてから、教育に熱心な土地柄で、現在に至るまでの長い歴史を持つ小学校が多くある。今回は、明治から昭和までの学用品や写真などでその紹介をしている。
下図は「各町就学生名簿」 明治15~25年(1889~92) 旧馬場小学校
当時は毎月入学できたため、個別の入学届が必要だった。年齢もばらばらだった。























「尋常小学修身書」明治33年(1900)
明治19年(1886)より「尋常小学校」となる。


青い目の人形歓迎式 昭和2年(1927)
旧馬場小学校

















「始業ベル」明治初期(推定)旧石引小学校
当時は小使(後の用務員)などがならして時間を知らせていた。
























「給食箱」昭和18年(1943)頃 旧芳斉小学校
旧芳斉小学校では、昭和18年(1943)に給食室を設置した。この箱は保護者会が贈ったものというが、私の小学生の時にもあった記憶がある。



















「初等科算数」、「初等科理科」昭和17,8年頃の教科書


















「ラジオ体操(英町通り)昭和11年 旧芳斉小学校




















戦後~現代の小学校
昭和24年、33年の教科書
道徳は昭和33年から始まった。




















通学帽はこのタイプのものを私も被っていたのでなつかしい。


















「組体操」昭和46年 旧馬場小学校
運動会などによく「マスゲーム」をやった記憶がある。
























4校が集まった「中央小学校」についての説明板があり、そのなかに私が卒業した「松ヶ枝小学校」の歴史が描かれていた。明治3年にできた「梅本町小学校」が創立し、その後、「西町小学校」などに代わり、明治42年に「松ヶ枝小学校」に改称されたということが分かった。