前回の「冬支度の白峰」の続きで、さらに白峰を歩いた。高台から川の向こうの白峰の街並みが見えた。
2025年12月10日水曜日
白峰雪だるまカフェ 旧吉野谷村
2025年12月5日金曜日
冬支度の白峰
今日は非常に天気が良かったので、少しドライブがしたくなり、午後に1時間ちょっとで行ける「白峰」に行った。(11月22日)
「白峰」は、石川県一の豪雪地帯で、今年の冬も「白川郷」と同じ2.5mを超えたと記憶している。金沢に雪が降る頃はとても「白峰」には行けない。
下図は白峰の総湯で、十数年前に入ったことがあるが、それ以降入ったことがない。玄関には唐破風の屋根が目立つところである。
この辺りの商店や民家は、こげ茶色に統一された街並みである。
2025年11月30日日曜日
北斎・広重展(4)広重 東海道五十三次
1か月前に掲載した北斎・広重展(3)北斎の画凶老人卍期 歌川広重 江戸風景画の続きで、さらに展示品を見る。次に広重の「東海道五十三次」の絵図を掲載する。
この作品は江戸時代の旅の様子が非常にわかりやすく描かれており、その時代の生活が手に取るように知れて見ていても面白い。
「お江戸人橋 七つだち・・・・」の歌でも知らるように、江戸の旅立ちは早朝を決まっていた。日本橋から京都まで約500kmで、十数日余りの旅が始まる。早朝七つは午前4時である。朱に染まる朝焼けの空を背に、鋏箱の奴、つづいて毛槍の奴を先頭に大名行列が日本橋を渡るシーンである。 橋の手前には魚河岸から鮮魚を運ぶ魚屋たちが騒がしい。
品川は上方から下る江戸の玄関口江戸の人たちはここまで来て、旅立つ人を見送ったという。人によっては餞別の酒席まで用意し、旅つ人は品川遊女とも別れを惜しんだという。
八山橋のがけっぷちまに旅籠や屋料亭、葦簀囲いの小茶屋が立ち並び、ここからの品川湾の眺望はすごくよかったらしい。春は桜の名所の御殿山、夏は潮干狩り、秋は紅葉の海あん寺の行楽地であった。
2025年11月26日水曜日
卯辰寺院群探訪会 震災復興への道のり(2)
卯辰寺院群探訪会 震災復興への道のり(1)の続きで、その後「來教寺」の裏の方にある「円光寺」に行った。ここは、妙法山と号する日蓮宗の寺院である。1521(大永元)年創建とされ、2代藩主利長からの信頼が厚く、利長にしたがい守山・富山・高岡に移り、1636(寛永13)年に現在地に移った。利長が高岡在城の頃に守り本尊として信仰した。観世音菩薩像が安置されている。
震災では本堂の外壁漆喰が剥落し、大屋根・向拝屋根ともに瓦にずれが生じた。土塀は東側石積みが崩れ、漆喰壁が剥落し、北側屋根瓦が落下した。本堂の外壁漆喰の塗りなおしはまだやられていない。
続いて「本光寺」は、鳳栄山と号する法華宗寺院で、当初は越中射水郡浅井にあったが、その後2代藩主利長に従い守山・富山・高岡に移った。金沢では当初泉寺町にあったが1649(慶安9)年現在地に移った。市指定文化財になっている山門は卯辰寺院群随一の薬医門で、築のランドマークになっている。
震災では山門前の常夜灯が被害を受けた。宝珠や火袋などの上部が落下し、土台の石積みにずれが生じた。
「全性寺」は妙具寺と号する日蓮宗の寺院で、当初は越中射水郡浅井に放生津あったが、その後2代藩主利長に従い守山・富山・高岡に移った。1786(天明6)年に現在地に移った。わらじ奉納寺として有名で、仁王門には身体健全や子供の成長を願って奉納された草履が多くぶら下がっている。「赤門寺」として卯辰寺院群でも目立つお寺である。
震災では西側土塀が基壇ごと崩壊し、東側土塀も版築上部が崩落した。











