2025年10月30日木曜日

北斎・広重展(3)北斎の画凶老人卍期 歌川広重 江戸風景画

 北斎・広重展(2)北斎の富嶽三十六景の続きで、次に北斎の「画凶老人卍期」つまり80歳になってから信州の小布施に4回通って描いたという絵が気になったので調べてみた。

信州小布施の富豪高井鴻山の依頼で作品を描こうということで、1845(弘化2)年より小布施に旅行に出かけている。そこでは上町・東町の二基の祭屋台天井に北斎が描いたものが4面ある。

下図は東町祭屋台で、北斎が天井絵「龍」と「鳳凰」を描いたものである。

























燃えるような明るい赤を背景にし、天井から突如として現れた龍は、眼光鋭くこちらを見ている。四方に描かれた青い波は、今にも吹き飛ぶかのように揺れ動き、鉤爪の白波を立てている。

「鳳凰」の図は、極彩色の鳳凰が鮮烈な光を放ちながら暗闇から浮かび上がる様子を描いたもの。鳳凰の周りには金粉が蒔かれており、赤や緑、藍で彩られた羽根は、舞い踊るようなその姿は一層優雅に見せている。


上町祭屋台は豪農将だった高井鴻山が私財をなげうって制作したものである。この天井図は北斎が「濤二枚」を描き、四方に描かれた「緑花鳥」は北斎の図にしたがって高井鴻山が着色したものである。





















ぶつかり合い砕け散る蒼碧の波が描かれた「男浪」は、まるで轟音が聞こえてくるかのように勢いを感じさせ、砕け散った浪頭の間から見える渦を巻く青い水は、今にも見えるものを吸い込むかのような感覚の陥らせる。
























「女浪」は、「男浪」に比べ穏やかに円を描く波が印象的である。「男浪」同様、勢いのある並ではあるものの、その渦の中にゆったりした不思議な時間が流れているよう二さえ感じさせる。両図の司法には金泥の地に色鮮やかな植物や伝説の生き物などを描いて縁絵が施されており、両図の波を引き立てている。

















    






次にもう一人の有名な江戸時代の浮世絵師「歌川広重」についてしらべる。
広重は、1797(寛政9)年に江戸城のお堀端の八代洲川岸の同心屋敷で生まれた。しかし少年期に両親に死なれ 、親が定火消同心職だったので、その職に付くのは常識だったが、浮世絵師に入門した。というのも幼少期から絵心があり、絵を描くのが好きだった。広重が「東海道五十三次」を描くきっかけとなったのは、1832(天保3)年に幕府御馬献上の一行に参加し、京に上がったとされ、その際のスケッチから・・・と伝わっている。
広重は特に「風景画」の第一人者で、その風景画は抒情や郷愁という言葉で評されるが、単にその場の様子を克明に伝えるだけでなく、四季の移り変わりや朝昼晩という時間の推移、さらに雨や風、雪などの気候を丁寧に書いている。広重の風景画から江戸時代の生活の様子がよく出ていて非常に面白く、私は特に興味を持ってみている。
























亀戸天神の裏手にあった亀戸梅屋敷は梅の季節には見物客でにぎわい、なかでも龍が伏しているような形の臥龍梅が有名であった。手前側に大きな梅を配し、背後の風景を枝の隙間からの是かせている。
























浅草寺の雷門から雪降る境内を望む。柱や板石をクローズアップした雷門から中景、遠景を縁取るような構成がすばらしい。参道の奥に見えるのは仁王門で、その奥の右手に五重塔。寒々とした冬空に、雪の白色と建物の赤色が鮮やかにある。
























猿若町は江戸末期の芝居町である。図は極端な線遠近法で表された猿若町の夜景で、道の右側の屋根に櫓が立つのが芝居小屋、左手が芝居茶屋である。
























深川洲崎は隅田川河口の東側に位置する埋め立て地で、洲崎弁天社が置かれた。一帯は木場でその北東も広々とした埋立地が隣接していた。画面の上部に翼を広げた大胆な大きな鷲を配した構図である。視線も上空から下界へと導かれる。その視線の先には波間に漂う小さな桶。冬の荒涼とした空気が漂う。
























日本堤は浅草聖天町から下谷箕輪に続く山谷の土手で、吉原通いの道として知られていた。通行人や駕籠が行き交う道沿いには、葦簀張りの掛け茶屋が並ぶ。柳の奥には吉原遊郭の屋根が見える。
























高輪牛車は「車町」とも呼ばれ、東海道沿いの高輪大木戸の南側にあった。江戸初期の普請により、木材・石材運搬のために京都から呼び寄せた牛車や車夫が、この地に移り住んだ。手前には、牛車の車輪が大きく描かれ、沖合の石塁は、幕末に海防のために築かれた台場である。
























江戸時代は、隅田川の夕涼みは5月28から3日間許可され、初日に川開きと8月28日の川仕舞の日には盛大な花火が上がった。その花火を見物人が両国橋に群がり、川面には屋形船や屋根船が集まっている。


2025年10月25日土曜日

北斎・広重展(2)北斎の富嶽三十六景

 北斎・広重展(1)北斎という人物 風景画の続きで、次に北斎の作品でもっとも有名な「富嶽三十六景」について見ていく。

「富嶽三十六景」古くから霊山として崇拝された富士山を、様々な場所からとらえた風景画であるが、その中で最も知られる下図の「神奈川沖浪裏」のイメージは世界中の様々なものに登場し、日本という国のアイコンというかシンボルとも言える存在である。

「神奈川沖浪裏」は、うねるような大きな波と、その波にもまれる三艘の小舟は、今にも乗り込まれそうで、船上の漁師たちは、ただ必死にしがみつくばかりである。真ん中に小さな富士山が整然としたたたずまいを見せる。この「神奈川沖浪裏」の図は、波がしぶきをあげながら高くせりあがった一瞬をとらえる大胆な構図は、見る者を圧倒する。



















下図は紅く染まった富士が描かれていることから「赤富士」と呼ばれている。赤富士とは、晩夏から初秋にかけての早朝に、甲斐国(山梨県)側から見た裏富士が、朝日を浴びて真赤に見える現象である。富士の雄大さや、刻一刻と山肌が太陽に照らし出されている様子から、富士山のみなぎる力強い生命力が伝わってくる。




















尾張国(愛知県)の富士見原は名護屋城の南方にあり、景勝地として知られた。図は大きな桶を作る職人を近景に描き、その桶の内側から富士をのぞかせている。よく見たことがある絵である。

















信濃国(長野県)の諏訪湖の北岸より遠く富士を望んだ図で、藍を主体に摺られている。近景に完璧の上に祠を大きく描き、手前にV字型の伸びる樹木を配す。奥行きのある湖面には1艘の漁船。遠景の富士山も存在感がある。湖の中ほど左に見えるのは「浮城」の異名を持つ「高島城」である。

















「鰍沢」は、甲斐国(山梨県)西部を流れる笛吹川と釜無川が合流する辺りの地名である。川岸の岩の上では漁師が投げ網をたぐり、子供が魚籠の中を覗き込んでいる。川筋の向こうにうっすらと富士山が見える。
















牛堀は常陸国(茨城県)にある霞ヶ浦に接した水郷で、画面手前にある苫舟には、水上生活者の営みが描かれている。男性が船の上から何か水を投げ入れると、二羽の鷺が飛び立っている。葦原の向こうに富士山が悠然と佇んでいる。
















相州梅沢庄(神奈川県梅沢町)は、東海道大磯宿の西側に位置し、海と山に囲まれた土地である。川のほとりに5羽の鶴がたむろしている。そのうちの1羽が空を見上げて、くちばしを開いて鳴き声を上げている。別の2羽が富士山に向かって空を舞う。

















浅草にある東本願寺の大屋根の一部を、クローズアップして描いた面白い構図である。屋根の上には瓦職人が作業中である。眼下には江戸の街並みが見え、井戸掘り用の櫓が立っている。はるか遠くに富士山が見える。雲の間から一筋の糸が伸び、凧がゆったりとそれを舞っている。


















日光街道の最初の宿である千住へ向かう大名行列が進んでいる。田んぼの畦道に座る二人の農婦が、それを見ている。田んぼの向こうに描かれている建物は吉原遊郭で、さらに向こうに富士山陵が見える。

















身延山久遠寺の参詣者でにぎわう身延道を描く。峻険な山に囲まれたこの地を流れる渓流は身延川、あるいは富士川と言われている。切り立つ山の隙間から富士山が見える。


















富士山の険しい山中を登山者が登っている。彼らは富士講と呼ばれる富士山を霊峰として信仰する信徒である。岩肌を必死によじ登るものもいれば、登山道でうずくまるものもいる。右上の石室には、多くの登山者が体を寄せ合うように休息をとっている。


















東海道金谷名物の大井川の川越しで、人足に肩車で担がれた旅人たちは落ちないようにじっとしている。その向こう側には、人足たちが大きな荷物や駕籠に乗ったままの人を被いて、威勢の良い掛け声をあげながら渡っていく。


2025年10月20日月曜日

北斎・広重展(1)北斎という人物 風景画

 石川県立美術館で浮世絵の「北斎・広重展」をやっていて、非常に興味があったので9月の末に見に行った。





































北斎と広重は、江戸時代の浮世絵師の中でも最も有名な絵師であるとともに国内外でもよく知れた浮世絵師である。
館内の「北斎・広重展」に入る前の壁に、北斎の描いた有名な「赤富士」が掲げられていた。



















北斎は、波乱万丈な90年の生涯で、30数回の改号、93回もの引っ越し、常に借金に追われる生活の中で膨大な作品を作ったという。その作品は「富嶽三十六景」に代表されるような大胆な構図と巧みな線と、独特な色使いで仕上げており、その画風は多くの絵師たちに大きな影響を与えたという。北斎の影響は、国内だけでなく「北斎漫画」に衝撃を受けたフランス人銅板画家・ブラックモンなど、美術仲間から北斎の名前が広まり、ジャポニズムブームが巻き起こったという。


















北斎が生涯で93回も引っ越ししたというが、掃除を一切せず、ゴミがたまると引っ越意を繰り返すという有様であった。
90歳で天寿を全うした北斎は、当時としては驚くべき長寿であった。68歳の時に中風を患
へしが自ら柚子の薬で病気を治したという。また、90歳まで長生きした要因は、酒もたばこもやらず、辛いもの(塩分)も口にしなかったことが大きいという。大福などスイーツは大好きだったらしい。
また、北斎は旅好きで遠くまで出かけていたという。80歳を超えてから、250km離れた4度も長野の小布施まで行ったという話は有名である。





































1999年の雑誌「LIFE]がこの1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人の中に、日本人で唯一選ばれたのが葛飾北斎であった。世界が認めたアーティスト、葛飾北斎は、今から265年前の1765(宝暦10)年に生まれ、北斎が浮世絵師として活躍した江戸の後期、文化・文政から天保年間は、江戸を中心とした「町民文化」が大きく発展した時代であり、北斎が時代の寵児となり、多くの作品を残したのはそんな時代であった。
若いころから浮世絵師として活躍した北斎は、その表現を変えながら、画家としての技術を高めていき、様々なジャンルですぐれた作品を残している。そのパワーが全開になり、単なる「浮世絵師」という枠からはみ出していくのは、70歳過ぎからで、その旺盛な創作意欲は90歳で亡くなるまで衰えなかったという。
例えば、「名所絵」のなかの「諸国瀧廻り 下野黒髪山きりふきの瀧」流れ落ちる水の表現や真ん中に表現した大きな瀧を配した大胆な構図は他には見られないものである。
























同時期の「百物語 さらやしき」も一般的な「幽霊画」とは大きく異なり、北斎ならではのユニークな作品になっている。
























ここからは、有名な「富嶽三十六景」は後日載せるとして、北斎の風景画の一部を紹介する。
下図は、おとぎ話で知られる「浦島太郎」の物語の中の、太郎が竜宮城へ案内された場面である。中央の釣竿を持った男が太郎で、傍らにいるのが亀。異国風の建物の奥にいる女性が乙姫である。

















江戸時代の隅田川の夕涼みは、陰暦5月28日から3か月あり、初日には花火が打ち上げられた。両国橋の上は見物人で賑わい、川面には涼み船が集まっている。川の袂には見物人を当て込んで、茶屋や見世物小屋が立ち並んでいる。

















九段内が淵は、江戸城の一部で田安門と清水門の間にある。牛が急坂を荷物を積んだ大八車や武士たちが行き交っている。山のように盛り上がった土手は、西洋画法をまねた陰影表現が施され、立体感が強調されている。



















「よつや十二そう」は角筈村(現在の西新宿)の十二社権現のことで、その境内の風景で、近くには図のような瀧があった。



















多摩川の河口に位置する羽田村に鎮座していた羽根田弁天社で、図の左奥にその鳥居と社殿が見える。図面中央の極端な角度の板橋は三角形を作り出している。北斎が好んで描いた幾何学的な構図である。

















下総国行徳の塩浜(現在の千葉市市川市)は、かって江戸湾最大の塩田地として知られていた。右下の砂浜がその塩田地だった。水平線に続く陸地は房総半島である。低い位置にある水平線も西洋の透視図法からの影響である。




















全国各地の橋をテーマにした「諸国名橋奇覧」の中の一つで、 本図は山城国(現京都府)の嵐山の麓を流れる川の渡月橋を描く。川辺に桜が咲きほこる春の風景で、川の筏は、丹波地方の木材を京都に送るもの。


















「諸国瀧廻り」は、水の流れの様々な形態に注目し、諸国の瀧を描いている。本図は木曽街道(中山道)の信濃国上松宿付近にある小野の瀧を描く。上から下に垂直にかつ力強く流れ落ちる水流の描写によって、この滝のダイナミックさが表現されている。

2025年10月15日水曜日

大乗寺丘陵公園 秋の気配 2025

 猛暑から最近はだいぶ涼しくなったので、今回は時々散歩で行っている「大乗寺丘陵公園」の風景が秋の気配を感ずるようになったので紹介する。

ここの公園の散歩道は多少の傾斜があり、私にとってはちょうどよい起伏である。その時の体調によって長さなど自在に調整できるので利用しやすい。

























周りの木々も少しづつ色づき始め、暑い長い夏からようやく解放されそうだ。
































「すすき」の間から金沢の町の眺望が見える。


















こちらは、ススキと緑と橙の葉が入り乱れている。


















歩いていると途中に「赤とんぼ」が大量に飛んでいる箇所があった。こんなに多く「赤とんぼ」を見るのも久しぶりで季節感を感ずる。童謡の「夕焼け小焼けの赤とんぼ」の歌を思い出した。






















歩道を歩いていると所々で赤みがかった木々があるのが見える。
































こちらは春には桜並木の所だが葉っぱが緑の中に赤く染まった葉が入り乱れている。


















公園内は、現在はあまり花が咲いていないが、こちらは小さいピンクの花が咲いている。


















黄色の高く尖った花は「キリン草」?が緑の葉の中に目立って見える。


















公園の管理等の前にはきれいな花が咲いている花壇が置かれているが、この花壇がいつもきれいに咲いているのは、こまめに世話している人のお陰である。
































この大乗寺丘陵公園は金沢市、野々市市、白山市、内灘町などの街並みの眺望がすばらしい所であるが、夕方は西の方向の日本海に沈む夕日が見え、オレンジに染まった空が見れる。


















さらに日が暮れて、周りが暗くなって雲の間から火の光が漏れるのが見え幻想的な風景である。